DIARY02
徨日
明け透けな毒入り独白備忘録
2015年
 現・彷徨日記進行中  虫食み嗾ける乾坤一擲の大脱走 2015.10.16 …題名、辞書をダラダラ見てたら面白い言葉が出てきたのでつい。
かなりご無沙汰になりました、こんなに日記を更新できていないのも久々な気がします。
こちとら、まだ辛うじて息しています。
日柄経つほど凹たれながら、加速的にか細る心には呆れつつ
日増し惰性的に生きながらえているような、相変わらずの毎日です。

何処かで見聞きした「二十歳までで人は終る」という感覚が
今恐らく最も酷く圧し掛かっているのだろうと思います。
身体的な成長は周知その程度で完了し
後は衰えていく肉体と積み重なる経験だけで、その数倍の時間を生きていく…
というのが詰るところの正体ですが
浅知恵と未熟な経験とが手を組んで、残る時間を酷く苦痛に仕立て上げていきます。
時折バカになって
一人叫んで踊り暴れ狂ってゲラゲラ笑ってみて、火照った身体を水に打たせてホッとするような下らない時間が
いつの間にか僕にとっての数少ない支えになるぐらいには、空しいものになりました。
でも幸か不幸か、きっとそこに特殊性などなく、相応数の成人がそこに下っていくのだろうと感じています。
あれこれ思案して、あざとい事もあくどい事も精一杯考えて
身体を虫食むほどに絡みついた様々な事柄一つ一つに責任転嫁する。
そういう繰り返しが次の虫食みを作り出して、それでもしつこく思案を続ければ
もう体中穴だらけになってしまって、全く自由なこの身体はもうちっとも動かない。
そうです、結局のところ僕はただの性質の悪い大人になったんです。


…一体毎回、どんな顔持ちでこんな陰鬱な文章捻り出しているのやら…
と自分でも身を引くぐらい、読み返していると本当に酷い日記ばかりですね。
至って平々凡々に無表情で淡々と書いているのですが、自然とこんな文章になる辺り
性根も豪く腐ったもんだと思います。
ただ、改まって誰かに助けて欲しいとか理解して欲しいとか、そういう発想は消え失せて
ただ嘔吐するように吐き出したい、こういう思考に至る場合も残してみたい、そんなものです。
前者は兎も角、後者は個人的な経験に基づくちょっとした善意のリレーで
悲惨な精神状態やその経緯、経過、結果を明け透けに吐露した見ず知らずの誰かの文章が
自分と重なる時は大きな救いに、そうでない時でも備えとして知識となり助けになり得ました。
だから、万一でもその可能性あるならほんの少しでいいから
そのリレーに参加しようという短絡的で浅はかな発想です。
あとすごく単純に、人と対話する機会も乏しいですから必死に文章考えるぐらいの時間がないと
脳みそが着々と腐り落ちて行くような気がするので…本とか読めって話か。
…読書、今思うと凄くありかもしれない。


そんなこんなで色々と近況です。
というほども無いんですが、今いつもよりちょっとだけ長いアニメーションを作ってます。
といっても10分もないかな…かか程度?
ようやくMVから離れて、対話のあるアニメーションです。
元々そっちがやりたかったので大変ありがたいお話もあったもんです。
でもそんな演出、碌にした事なかったもんですから悪戦苦闘中…。
観るのと作るのは毎度ながら全然違いますね。
こちら今年末~年度末?ぐらいのタイミングでウェブ上でご視聴頂ける…と思う…ので
スケジュール通りに進めばその頃、是非ご覧頂ければ幸いです。

あと、触れるタイミングすっかり逃しましたが
8月末には歌い手・ろんさんの「そばかす」のMVを作りました。
こちら、風と影を生み出す方法を色々と試行錯誤した作品でした。
こういうのゴリゴリやっている時に「あぁ自分はアニメーターもどきだなぁ」と常々思います。
アニメーターなら作画で万象を生み出せって話なんですが
労力考えてそんな作画をやる気は微塵も湧き出ないあたり、ほんとモドキです。

それと9月は、助っ人でライブのOP映像をほんのり手伝ったりしていました。
ほんのり。

あとダークなMV…凍ってますが…まだ。
だいぶお先になりそうですが。


終いに布教も。
多いのでサクサクと…。

gobelinsシリーズから4本。
One day
一本目。結構前の作品なので布教済みかも。最近ふと見返して何かと思うところもあって。
AMA
二本目。なんと海女さん。…この内容を海外視点で作る面白さと不甲斐無さ…。
SHUDŌ
三本目。…この内容を海外視点で云々
QUE DALLE
四本目。色合いと演出と結構好みです。台詞早くて置いていかれるけども…。

DOFUS le film - Livre I : Julith
ANKAMAのDOFUS。
色使いや画作りがアニメの為にあって…本当に良いなぁ。

「ルパン三世」オープニング映像
お洒落OP素敵。テーマ曲はやっぱりワクワクしますね。

【パズドラTVCM】「転校生」篇
コロリドさん、柔らかい曲線作画が作風として確立されててさわり心地良いです。

Halo 5 Opening Cinematic
毎度ながら最後は路線変えてCG…というかHalo。
もうかつてとはすっかり別物になってしまったけど、これはこれで格好良いなぁ。
ただ、ハリウッド病は観ていてなんだか少し悲しい。
アニメもゲームもそうだけど、他表現へのコンプレックスを画面に感じたくないなぁとは常々思います。
他表現の良質さの吸収だったり咀嚼しての組み込みであれば素晴らしいので
その曖昧な感覚は極めて個人的のような気もしますが。
ただそのさじ加減だったりをコントロールできるかどうかは全然別問題で
僕の場合も塊かもしれないのでとても大層言えないけれども…気持ちだけでも。


そんな布教祭りでした。
…最近は布教というより個人的なアーカイブ化しつつある気もしますが…。
今年もあと2ヶ月、踏ん張らねば。
 試算と打算 2015.06.30 だいぶご無沙汰になりました、どうにかまだ元気にしています。
最近は、変わらずダークなMVをダラダラを継続しつつ、なにかと飛び込んできている次の分の用意をしつつ
先行きハードそうな感じでありがたい限りです。…体力さえ持つならば。
また梅雨明けたら、体力づくり再開せねば…。


もう暫らくになるのですが、僅かでも積み重ねた経験が物事の試算を得意にし、それが首を強く強く締めるようになりました。

例えばすごく身近な話、歯磨きをするのに大体5分かかる、こういう試算です。
そしてそれに纏わる改善について、例えば歯ブラシを効率的なものにする、歯磨き粉を強力なものにする
歯を磨く技術を向上する、小分けにして一回の時間を減らす…等々の時間と労力、金銭をも、ササッと試算してしまう事です。
そして出て来た凡その数字から、打算的に「自分に最も適した対処」をそれとなくこなします。

…大層な書き方ですが、当たり前の事だと思います。
意識せずとも、誰しもこういう日々の最適化を無意識的に繰り返しているはずです。
こういう試算は、経験によってひたすらに鍛え上げられていくように、盲信しがちだろうと思います。
実際の試算は非常に大雑把なもので、正確には的外れだったりするものですが
それすらも試算に組み込んでしまうせいで負け知らずな存在となり、僕なんかは盲信してしまっています。

すると、この試算が厄介になるのです。

何かを行おうとする前に、常に試算が付き纏います。
そしてその労力を想像して辟易し、消極的に立ち振る舞う。
その姿勢を不味いと分かって、積極的に取り組み始めても
物事の始まりの流れが試算から大きく外れなければ、道半ばで意欲が失われてしまうのも想像に容易い事です。
こうして「自身の試算が正しい」という経験がどんどん積み重なり、ますます盲信してしまっています。

この試算は物事だけに起こるわけではありません。
人とのコミュニケーションにおいても変わらず、絶えず行ってしまっています。
この人にこの行為をすれば、凡そこういう反応がくる、その結果で相手の心理がどちらに転び、次の対話はこうなる…
なんて、将棋の先読みみたいな事をひたすらに脳内で積み重ねていくのです。
…馬鹿みたいでしょう、他人の反応は、将棋みたいに限りある選択ではないのですから、こんな先読み大概に無意味なはずです。
でも、試算は結構上手くいくんです、つまりは対人である場合は想定外である試算をより多く出せば、何だかんだ程よいんです。
仕事のやり取りなんて、もうみんなこんな調子に感じます。
相手のミスを待ちながら、自分の思惑通りに事が運ぶ術をひたすらに考え尽くしているのです。
そして、それに対する労力、対価、時間を試算して、打算的な妥協点に至る方法を模索する…なるほどこれは飽きる。

しかし試算は更に広がり、僕個人の人生をも掌握しようとしています。
あらゆる今後の展開、無数であるはずの可能性を強引に試算し、打算的な展開を求めてくるのです。
すると見えてくるのは、実に苦痛多き時間なんです。
…悲観的に物事を試算している、訳ではないんです。
ただ、凡その平均的な人生だったとしても、享楽的な恵まれた人生だったとしても、苦難に満ちた人生だったとしても。
そこに潜む一定の苦痛と苦悩を経験的に試算して、あぁダメだと感じているのです。
よくあるその程度の苦痛や苦悩が、もう僕にはしんどいのです。

僕は別に、自ら命を絶ちたいと思いながら生きてはいないのですが
意地でも生き続けたいとは到底思えていない人間だと思います。
だから、明日死んでも、今血反吐を吐いて死んでも、別に良いと思っています。
どのタイミングで死んでも未練は残る、苦悩はある
どれだけ考えても個の力で凌駕する事はできない事象だと、仕方ないと舐めているんだと思います。
それは昨日今日始まった考え方でもなくて、多分幼い頃からずっとそんな調子なんです。

ストレス下を耐え抜いて後の享楽を期待するか、万一の可能性にかけて今終らせてほぼほぼ死ぬか
なんて選択肢が用意されたら、昔から僕はあっさり後者を選ぶと思います。
万一になったらラッキーですし、死んだらストレスから解放されてまぁ良かったじゃないですか。
耐え抜いた結果が、更なるストレスだったら本当に救われないですし、僕は後者に逃げる人間です。

結局そんな調子でしたから、高校生の頃、自ら命を絶とうとする人の気持ちが鮮明に見えた気のする日がありました。
あぁなるほど、別に生きていなくても良いか、という放任的な感覚です。
こういう阿呆みたいな事を書き連ねると、生き続けたら得られるかもしれない幸せや
今手の内にある幸せを大事にしろと説き伏せられそうですが、そんな事は分かっているんです。
放任的な感覚を知ってから、随分と沢山の幸せを受け取ってきましたし、それこそ感謝し切れないのですが
それでも、あの時に死んでいてもそれはそれで良いじゃないかとか、正直思っています。
恩返しもせずに薄情な!と言われたら、あぁそうですかと返します。
人は相互補助の関係で、それこそ試算不可能な持ちつ持たれつな関係だと思います。
仮に、僕が必死に世話をした幼い子がいたとして、その子が自ら命を絶ったとしても、僕はそれを薄情だなんて到底思えません。
その子の苦悩に手を差し伸べられなかった自身の無能さはひたすら嘆かわしいですが
あくまで僕の向き合い方の問題じゃないかと思うんです。

それともう一つ、生き続けて得られる幸せについて思う事ですが
僕の好きな歌に「悲しみはいずれ忘れられるというのならば、喜びだって同じだ」という歌詞があり
初めて聴いた当時はピンと来なかったのですが、今は痛いほどよくわかります。
人に誇れるほどの確かな幸せを、沢山受け取った今だからこそ。
それらも全ては過去の事、悲しみも喜びも、かつてあった出来事でしかなくなりました。
夢見た喜びはそういうものだったのかという認識が経験となり、試算をより酷くしているのです。

こういう諸々と、生来の感覚とが連なって
生に対する執着心は日に日に落ちているんじゃないかと感じています。
でもきっと死にはしません、放っておいてもとりあえず生きてはいけるだけの贅沢な環境にありますから。
こんな生気を失いつつある無責任な人間が平然と生きていけるのですから、全く申し訳ないほどに不平等なもんです。

…なんて色々思うんですが、最終的にはただの甘えん坊なだけなんでしょうね。
この贅沢な環境、恵まれた人たちに囲まれて、存分に甘えているだけなんです。
必死に生きたい、こんな事を思う日が来るとは、案外試算できていなかったように思います。


仕舞に、アニメーション等の布教を。

「ルパン三世」新テレビシリーズ PV
ルパン三世の新シリーズです。
かの友永さんの手によって蘇るというので製作発表の時から気にしていたのですが
いざ映像を観てみると想像を超えて、だいぶやられました。
こんなに心地良いタッチのアニメーションが、TVアニメとして楽しめるなんてほんと贅沢な話だと思います。
日本での公開は秋なのでまだまだ先ですが、今から楽しみです。

amazarashi 『無題』(Youtube)
amazarashiのアニメーションMVです。
統一されたタッチが世界観とよく繋がっており、MVとして凄まじい完成度で魅入りました。
amazarashiの曲は、最初こそ中々馴染み難かったのですがハマると結構入り込んできて、まさしくスルメな感じです。
もし興味あれば、騙されたと思ってちょっと試してみるのもお薦めです。

Cuphead E3 2015 Trailer for Xbox One
最後、ちょっと趣向を変えてゲームです。
往年のカートゥーンを異常な完成度で再現しています。
こんなのみると、デタラメなんちゃってアニメ技術をフル活用してゲーム作りたくなる…。

そんな感じの布教でした。
 想像力と共感の嘘、その先 2015.04.28 先日、駐車場が広めのコンビニに自転車で買い物に行った時のこと。
コンビニの外においてあるゴミ箱とはだいぶ離れた所に自転車を止めて
ほんの数分の買い物を終えて出てくると、自転車のカゴの中に立派なゴミが…。
止む無く溜め息をついて、ゴミ箱に誰のとも分からぬゴミを捨てて帰りました。

こういう時に、想像力や共感能力というものに思考を馳せます。
近年、人々の想像力の欠如が深刻化し共感能力が落ちているせいで、生き辛い社会になっているという意見を目にします。
確かに、逆の立場だったらこんな事されたら嫌だろうに、と当然のように思ってしまいます。
嫌である事が想像できたなら、その思いは共感出来たも同然、共感できるならより良い方向に努力するほうがずっと良い。
そういう連続で、みんなが生きやすい社会になれば良いのに、と思うばかりです。



…なんて、嘘をついてみました。
コンビニは行ってませんし、僕の自転車カゴにゴミを入れるような人には(最近は)遭遇していません。
ありがたい事です。

ところで。
冒頭のコンビニの簡素な描写を読んで、あなたはどんなお店を想像したでしょうか。
ものすごく具体的な空間が浮かんでいたか、或いは何も空間を想像しなかったか分かりませんが
少なくとも、僕の頭に浮かんでいたコンビニとは似ているようで全然違うものでしょう。
駐車場の広さ、止まっている車の量、面する道路、行き交う人・車、ゴミ箱の配置、駐輪場の位置
立てかけられている旗、傘立ての有無、置かれた傘の柄、喫煙スペース、タバコを吸う人、こぼれた吸殻の数
コンビニの種類、形状、コンビニの内装、店員、店内の他の客、扱っている商品、レジに並ぶ特売品、コピー機・トイレの位置…
恐らく、ほとんど合致する事も無いでしょう。
多分に、各々の記憶の中にあるそれらしいコンビニを想像し、伝わる情報と無理矢理つなぎ合わせているだけのはずです。
しかし不思議か当然か、伝えている僕と受け取っている人はお互いに
さも同じ空間を共有できているかのような勘違いをしながら、あるいは相違の自覚を騙し騙し、事は進められていきます。

これこそが人の想像力であり、伝聞を面白おかしくする最高の力であると同時に
人と人との間にある、想像力による共有の限界だと最近よく感じています。

冒頭、想像力で以て他者に共感しお互いに居心地の良い空間を、なんて事を書いてみましたが
僕にはこれがもう恐ろしくて仕方ありません。
最近まで漠然と「想像して察しろ、なんとなく分かるだろう」という感覚で様々な物事に向き合っていましたが
それがいかに阿呆らしかったか、何も考えていなかったかを痛感しています。
一体僕は他者の何を想像し、理解し、共感したつもりでいたというのでしょうか。
共有なしに、確かな共感などありえないはずなのに。

父の事も、内在する自身の事も、結局のところはコンビニの想像と同じです。
恐らくほとんど合致もしない想像を繰り広げ、自己の体験談と無理矢理結びつけ
その時の自分の心情と照らし合わせ「その気持ち分かるなぁ…」と勝手な共感を繰り広げるのです。

また、逆の場合だって何一つ変わりません。
必死に自分の体験や空間を、文字や声、絵、あらゆる表現方法でせっせと伝えてみて
一体何を伝えていたつもりでいたというのでしょうか、瑣末な期待すらも愚かしい話です。
「コンビニに行ったよ」という体験談ですら、本当は碌に共有もできていないんですから。

しかし、救いはありました。
思考による共感は錯覚のようなものでしょうけれど、体験の共有による共感は確かにできると思うのです。
個々人の感性・能力があまりにも異なる為に、思うところ・感じるところは全く別物ですがそれでも
例えば一緒に素晴らしい景色を観たとか、恐ろしいものに出会ったとか、苦しい時間を乗り切ったとか…
細かく見ればやはり碌に共有なんて出来ちゃいないんですが、大きな体験としてそれらは共有できるはずです。
つまりは、「あの風景の全体に滲む青色は独特で昔を思い出して感激したよ」という感覚は微塵も共感できなくとも
「あそこは本当に美しかったよね」とか「あれは本当に辛かった」とか、そういう大雑把な事は共感できるものです。
一つの体験を共有したからこそ。

僕はそれを、本当に素晴らしいと思うんです。
共に過ごした体験は、例え言葉にならなくとも、何かで表現できなくとも確かに共有できていて
その事による共感がどれだけ心身を慰めてくれる事か、それだけは本当に救いなんだと僕は思います。
だから人は、少しでも誰かと共に在ろうとするのだと思います。

しかし裏返せば、共に体験できなかった事、同じ時間を過ごせなかった事、共有できなかった事は
どれだけ言葉を重ねても、どんなに複雑な表現を用いても決して確かに伝える事は侭ならず
各々の適当な想像力と勝手な共感で以て、体験の共有の真似事でお茶を濁すしかないんです。
それはあくまで悲しい慰め合いであって
その慰め合いに潜む別の感情に救われる事はあろうとも、共有する事により生じる救いとは程遠いものです。

そんな悲しい実情ですから、例えば学生時代なんてものは、本当に貴重な体験足りうるんです。
大体の人が、規格化された同じような空間で、似たような行事をこなしながら過ごすんです。
その結果で、この国中の人が後々に多くの事を共感し合えるんです。
例え多少特殊な学校空間であっても、共に過ごした同級生らとはその体験を密に共有できているのですから
きっといずれは大きな救いになるんだろうと思います。

社会人になっても、似たようなものです。
似たように通勤し、同業種と似たような体験を重ね上げ、いずれは共有できるはずです。
だから人は、心身を孤立させずに慰め支え合い、お互いに救い合って生きていけるような気すらしています。

そうして思考を突き詰める毎に、今度は自分が惨めになりました。
か細い心が悲鳴を上げて、何度も何度も書き重ねている事ですが
いつからか僕はイレギュラーな存在として煙たく扱われ、道もあるのか分からないところをさ迷うようになりました。
それを誇らしく思えるほど勇ましい心持ちもなく
その生き様で積み重ねていく体験はひたすら個人的なもので、全然豊かと言えるものでもありません。
恐らく探せば、似たような境遇の人を見つける事も出来るでしょうが
多分にお互いに、こんな惨めな体験をわざわざ共有したいとも思っていないでしょう。
だから、何も共有できていない。


幸い、優しい人が沢山いるから、見事な想像力で共感してくれる人はいっぱいいます。
お陰様で、その優しさには何度も何度も救われています。
でも、その都度悲しくもなります。
驚くほど、誰とも何も共有出来ていないことを思い知らされるような気がしてしまうのです。

だから、きっと伝え方が悪いのだと、必死にあの手この手でずっと喚いていました。
結果は思いの外。
そもそも、伝えられる事はあくまで伝える事柄でしかなく
共有という時空間を共にする事は極めて特殊な状態で、何かで代用したり伝聞できる代物ではないようです。

結局、僕が馬鹿だったんです。
もっと人はお互いに繋がっていて、分かり合えると思い込んでいました。
でも大層な勘違いで、伝え合う事で伝わる事はその程度の情報で
時空間を共にするという難儀な特殊状態を維持して尚、分かち合えるのは極僅かなのです。
しかしその極僅かですら、数少ない確かに共有できるものだからこそ、素晴らしく思えます。
そして僕はそれを、変な生き方に逸れていく度どんどん取りこぼして
気付けばほとんどを共有出来ずに過ごしてしまっています。
最近、その事にようやく気付きました。

そうして終には孤立して、か細い心は絶えず悲鳴を上げています。
それも自業自得、こんな生き方を選んだ以上
何かを共有する事で救われようとする事は、少しずつ諦めていくべきかもしれません。
でも同時に、最近新たな救いに気付きました。
僕が逃げる様に続けているアニメーションは
僕の何かを吐き出したり伝える事には碌に役に立たないんでしょうけれども
誰かと誰かの、時空間を共有する道具には足りうるのかもしれません。
これは僕にとって、新しい感覚です。
誰かを救う事で、少しでも自分も救われたい。
誰かを救えるなら、きっと少しでも自分も救われる。
そんな新たな盲信です。
その実際は、またいずれか分かるでしょう。
どんな形であれ、少しでも何かが救われる事を期待しつつ。



…という話が、3月11日頃の日記に書いた「数日かけて吐き出したい毒」の内容でした。
もっとササッと数日で書き終える予定が、気付けば1ヵ月半もかかっていました、オカしいな…。
そうこうしている間にも、色々と環境の変化だとか仕事の進捗だとか旅行だとか
日記に書きたい事が沢山あったので…またそれは後日書こうと思います。
その更新がそう遠くならない事を願いつつ…嗚呼なんと日々すら侭ならなさよ。
 父 2015.03.30 いつもに増して、少し重たい個人的なことを。

数年前、僕の両親は離婚しました。
よくある熟年離婚とは少し様子も異なっていた為、もう数年、僕は父の声すら耳にしていません。
ざっくりと書けば単純で、父は心身を数年あるいは数十年かけて磨耗させ、平静を保つのが困難になり
家族を持てるだけの人ではなくなった為、このような状態に陥りました。

人に誇れるほど仲良し家族でもありませんでしたし、よくある程々の家庭だったんだろうと思います。
見栄もあって、良い家と良い家具、良い教育を与えてもらえた一方で、他の事は何かとカツカツという生活でした。
ですから家族団欒というイメージはあまりありませんでしたが
それでも僕にとっては唯一無二の僕の家族であり、拠り所だったのは間違いありませんでした。

それが数年前に突然に崩れ去り、僕の生活は緩く変りはじめ
把握し切れていない自身の何処かに、強烈な不信感が芽生えたように思います。
家族ほど勝手に信頼していた存在も無かったろうに、それすらも当たり前のように何も知らない。
他の色んなダメージが時間をかけて少しずつ癒えていく中で、その認識だけは何一つ変らず残りました。

しかしその認識でさえ、ある程度諦める事で少しずつ
…嫌な言い方をすれば、どうでもよくなりました。
時折思い返しては、「何も知らないんだ」と人を見る目をリセットする嫌な癖がつきましたが
それは紛れもない事実で、恐らく自分の心身を守るには丁度良いぐらいだと思っています。
…少し話変わりますが、不思議な事に時間を重ねる毎に、心身というのは弱る一方なんですね。
何となく、ずっと心は図太く強くなっていくものだとばかり思っていました。
本当は心はか細く敏感になる一方だから、脆い心を守る為に鈍感を演じるという方がずっと的確のような気がしています。
兎角そんな調子ですから、か弱い自分の心を過保護に守る為
僕はそういう不信感や疑心さえも少しずつ受け入れつつあります。

ただ、一つだけ何度思い返しても辛いのは
「何も知らない」ではなく「何も気付けなかった」実際で
正確に言えば、薄ら気付いていたにも関わらず何も出来なかったし、何もしなかったという自身の致命的な失敗です。
身近であるはずの家族が磨耗していく様を、近くにいても何もできなかった事。
何となく、父なら自力でどうにかするだろうと自分本位に事を捉え、何一つ気付かぬふりをした事。
仮に何かしたとして、それが解決になったとは到底思えませんが
それでも些細な行動が人を精神的に解放させる事を僕は身を以て知っていたのに、何もせずに全く望まぬ結果を迎えた事。
それらが愚かな後悔として、時折脳裏を過ぎりしかめっ面になります。
そして、まだ分かりませんが、恐らく次に父に会う時は葬式か墓前になるのだろうかと思うと
そこに至るであろう父の道程を、ただひたすら恐ろしく思います。
考えるだけで単純に苦痛です。
その怖さに、今ちゃんと薄ら気付いているのです。
でも、やはり何も出来やしません。
何かをするのも、負けないぐらい怖いんです。

そして本当はやはり「何も知らない」んです。
薄ら気付いているのに何もしないようで、その実態は、適当な想像で組み立てた父の今後に勝手に恐れ慄いているだけで
その事実を知るのも、知ったうえでどうするか考えるのも怖いだけなんだと思います。
だから、想像し、恐れ、鈍感で何も気付いていないふりをして、知らなかったと言うのです。
実際に知らないのですから「何も知らない」と言い張ります。
想像が及び、恐れたならば、知る努力だって出来るだろうに。

でも、きっと僕は逃げ通します。
随分前に、そう決めたんです。


それがまた、次の恐怖を呼び起こします。
自分の末路も想像し、死ぬ事もきっと満足には出来ないのだろうと、ただ情けなく。
 視線の落ちる先 2015.03.20 ここ数ヶ月で、少し自分の中に変化が起きているように感じています。
取分け、ずっと定まっていなかった視線を身近なところに置いたら
途端に落ち着いてしまう事に気付いてしまったのが大きいように思います。


何かを作り世に発信し続ける、単純ながらすごく体力の要ることです。
どんな動機であろうとも、何年にも渡って継続しようとすればそれは大概に難儀な事だろうと思います。
それが原初的な動機あればあるほど、或いはその持続力は増すのかも知れませんが
そこに意義を求め、殊勝な動機で継続しようなんて考えたものなら、その厄介さは増すばかりなんじゃないかと感じています。

僕は自己定義の中で物作りの動機を
理想は「娯楽人でありたい、人を喜ばせたい」と
一方で現実は「咀嚼し切れぬ自身の感動体験をどうにか伝えたい、知って欲しい」と判断していました。
その動機は満たされているか如何かと言えば、色んな瑣末な拙いものを必死に作りは四方に発してみても
伝わったかも分からない、楽しんでもらえたのかも分からないというのが実のところなんです。
いえ、本当のところ大して楽しんで貰えてもいないでしょうし、何も伝えられていないんだろうと思います。
…少なくとも、性根の曲がった僕はそう感じてしまっています。
ですから、結局のところ動機を満たすほどの具体的な手応えは無く
画面上に表示される「何回ぐらい再生ボタン押されたよ」という得体の知れない数字をただ眺めるだけです。

そんな僕も時折ふと、人に絵を描いてみたりします。
「要らないだろうなぁ」と思いつつも、僕にできそうな事が他に何もなくて
些細な気持ちを伝える僅かな手段として、微かな期待を沿えて絵を描いて送ってみたりするのです。
すると、嬉しい事に思いのほか喜んでもらえたりするんです。
何かが伝わったとか、そういう素晴らしい事ではないのかもしれません。
それでも嬉しいといってもらえたその事が、僕は単純に嬉しい。
僕は碌な人間じゃないですから、一瞬でも生まれるその居場所がとても変え難いんです。
数万回再生ボタンを押されたよ、という数字より、目の前の人一人がワァッと笑顔になってくれる…
そのほうが僕はずっと幸せです。

すると、僕の理想的な動機であった人を喜ばせたいというそれでは、わざわざ四方に発する理由は無くなったも同然です。
お世話になっている人に、助けられている人に、手を差し伸べられそうな人に、その大切な人一人に絵を描いてみる。
結果どうであれ、それだけで僕の気持ちは十二分に満たされてしまうようです。

残った動機は結局、実感として捉えていた「自身の感動体験の布教」です。
これまた厄介なもので、咀嚼し切れなかった感動体験を別の手段で表現できるかと言うと、そんな簡単なはずもなく。
ひたすらに研鑽を積めば少し似た何かで表現できるのだろう、出来たら良い、とようやく認識できた程度です。
すると、後はもう単純無心に、表現技術を鍛え続けるだけです。
その過程に感動体験なんてほとんど無く、かつてのおぼろげな体験を追い求めるばかりで、その姿は時折惨めでさえあります。

一体全体、何をしているのやら…
もうすっかり分からなくなり、しかし積み重ねた膨大な時間がその分恐怖を蓄えて
ただ、むなしい時間が過ぎるの待ち続けています。


そして今となっては
「続けていて良かった」そう思える瞬間が来ること、それこそが動機で盲信しているだけなんだろうと思います。
そしてそれは同時に、確信でもあるのです。
少なくとも僕は、自分を肯定する事が得意ですから、いずれはどんな結果でも「まぁこれで良かった」と適当に思うんでしょう。
そこまで考えて、改めて一体全体何をしているのやら…と思い、むなしくなり、盲信し。
そんな堂々巡りを、ここ数ヶ月ダラダラと繰り返しています。
 近況と自分の色 2015.03.11 随分と間が空いてしまいました、ご無沙汰してます。
書きたい事、吐き出したい事がつらつらと溜まってしまったので
数日かけて肩にこびりついた毒を出していきたいところです…。

先ず、簡単に近況から。
先日突発的に発生した短期案件をゴリゴリをこなして、そちらはほぼほぼ完了しました。
多分近々公開できると思います、とても短い作品ですが尽力しましたので是非、公開された暁にはご覧頂けると幸いです。
そして、半年以上前からチラチラ書いている、ダークなMV作品はようやく本制作です…
流され押し出され…の、ようやくです。
鬱屈とした僕の気持ち悪い感じを押し出しつつ、格好つけて作っています。
こちらはまだまだ時間かかりそうですが、完成次第また告知するので、こちらもどうかよろしくお願いします。
そんな相変わらずの近況報告でした。


先日、友人と他愛無い事を話していた時にフッと
長らく自分を混乱させていた「自分の正体」が垣間見えました。

友人と、自身の行動原理についてダラダラと話をしていた時、彼はこういうのです。
「俺は人に良くみられたい、それだけだ」
なんともシンプルで、僕は彼のそういう割り切った考え方が好きです。
でも僕にはその思考はしっくり来ませんでした。
必ずしも僕はそういう動機で行動しないし、凡そ嫌われると分かっていてする事も沢山あります。
そして何より、人が誰もみていないところで尽くす「善行」は何かと問われると、途端困るのです。
彼と話がそう転がると、一時の思考を挟み
「そうしないと、自分が気持ち悪いからじゃない?」
と、行動に理解は示しつつも動機は決して判然としない、そういう答えが返ってきて、僕は妙にハッとしました。

僕の好きな、原監督のアニメ映画「カラフル」の中で
「自分の色は一色じゃない、カラフルなんだ」というシンプルな主張が現れます。
すごく明白な考えで、僕はそれをよく理解しているつもりでいました。
集団の中において、意識的にも無意識的にも、自分の立場、役割というのを人は瞬時に判断できるものです。
例えば「ここで発言するのは自分らしい、らしくない」など。
まさに、自分の色を固定していく感覚です。
それはよくよく実感している事であり、それを打ち破ってもっと自由に生きていけるという主張も
もっともな事だと、簡単に理解していたつもりでした。
しかし、その本質はもっと根深いものでした。

問題の「自分の色」はどうやって決めていくのか。
日々の状況、環境の連続の中で迫られる選択において
過去の決断、その時の心情、思考をひたすらに積み重ねて、極めて無意識的に
人は生まれた時からその生涯を費やし、果てしなく複雑な「自分」を定義していくのです。
そしてその定義に則って、自分の立場や役割を瞬時に叩き出す、これは社会性の強い生き物ならではの本能だろうと思います。
また「選択時の心情」と書きましたが、つまりは自分の定義は同時に極めて意識的にも行われているはずです。
この意識的・無意識的な二つの自己定義が、尽く人間を複雑にしていくのだと思います。
そして、自分でも「不可解な自分」が出来上がっていくのです。

そう、思考が一巡したところで
誰もみていないところで尽くす「善行」について、少し答えを感じとれました。
つまりは、かつてどこかのタイミングで「自分はここで善行をする人間だ」と定義をしてしまったのです。
すると、その善行を意識的に避けようとすると自己定義に矛盾が生じ、苛立ちを覚えるのです。
だから「気持ちが悪い」のです。
しかし難しいのは、大概の場合に自己定義というのは不可解なものも多く
例えば変な収集癖なんてものもそうでしょう、凡そ自分でも説明できない域に達してしまう事があります。
すると、否定するのが非常に簡単になるんです。
時間の無駄だ、お金の無駄だ、何でも良いんです、合理的であれば否定は簡単に出来てしまう。
しかし、肯定は難しいのです。
いつ・どのタイミングで、その不可解な定義を得たかなど、判然としようがないのですから。
ただ、止めようとすると「気持ちが悪い」。
何故なら、それこそが自分なんですから。
止めたら自分を認識できなくなりかねません。
…というのは大袈裟ですが、少なからず自己定義を再構築しなければなりません。
それは多大な労力を要します、だって年齢分かけて培ってきたプログラムみたいなモンですよ。
今更デバッグをするのも書き換えをするもの、考えただけで億劫になります。


友人との会話で、そんな自己定義について思考が駆け巡りました。
そしてフッと、自分の愚かしい意識的な自己定義を思い出しました。

小学生の頃、好きな子からこんな話を聞きだしました。
「リーダーシップのある人が好き」
恐ろしく短絡的で愚かしい自分は、恐らくこの時初めて
極めて意識的に、何も理解しないままに、自己定義を大きく覆してしまったのです。
凡そ不真面目で遅刻の常習犯、宿題はろくに出さない、指示はちっとも聞いていないのダメな子でしたが
先ほどの不純な動機で自分を変え続け、遂には「リーダーシップのある人」になり切っていました。
しかしそういう思いは数年も経てば消え失せました。
そして今でもはっきり覚えているのですが
「もう、真面目君じゃなくて今まで通りでいっか」とだらしない自分に戻ろうとしたのです。
でも、手遅れでした。
無理解なまま意識的に自己定義を覆し、尚且つ数年それで過ごしたのです。
戻ろうとすると気持ちが悪い、真面目であろうとすると居心地が悪い。
この時、明らかに宙ぶらりんな自己定義が出来上がりました。


以後今に至るまで、僕はこの宙ぶらりんな感覚をしっかりと認識しています。
つまりは、僕の自己定義は矛盾で満ち満ちているのです。
だから友人のような割り切った考え方に素直に憧れたり、容易く自分の本音や建前すら見失うのです。
気持ち悪いのにやらざるを得ない、やってみたいのに気持ちが悪い。
四半世紀かけてゴチャゴチャに積み重ねた結果ですから、今更全部書き換えるなんて到底無理です。
もう、どうしようもありません。

ただ、その仕組みを勝手な妄想で補えた事、これが僕にとって大きな救いになりました。
得体の知れない気持ち悪い自分から
過去に馬鹿な事やったせいでぐちゃぐちゃになっている自分に変わったんですから、本当に大きな変化でした。
毎度のどうしようもない話に根気強く付き合ってくれる友人には感謝し切れません、ほんと。
こんな他愛無い会話でも、この先も確かに積み重ねていければなぁと思います。
 臆病な思考の仕組み 2015.01.19 イラスト一枚追加しました。
珍しく…というか久々?に完全ベタ塗りのイラストです。
厚塗りとか色々な塗りを曲がりなりにも経過して
「シンプルに見易いほうがよい気がする…」
という視点に何故か回帰しました。
それはつまり、ずっと逃げ回っていた「色で戦う」という事にようやく重かった腰を上げた訳ですが…
やっぱりとても難しいです。
要素をシンプルに削ぎ落とせば落とすほど、分かり易さゆえに実力の露呈が凄まじく
改めて自分の身の丈を見誤っていたなぁと痛感しています。
…正しく身の丈を計れた事なんてない気もするんですが。
兎角、もっと射抜くような、ワクワクできるような絵が描けるようになりたい。
ひたすら精進あるのみ…!


先週、YouTubeの「鬼斬娘 再戦」が局地的な海外で一時的に話題になりました。
こういうブームが来ると、ワァッと分不相応な評価が集まってくるのですが
…贅沢な話、その都度本当に遣る瀬無くなります。
「ごめんなさい、そんなに大したものじゃないんです」
頭の中は延々とそのループです。

その思考の仕組みはシンプルで、よく理解しているつもりなんです。
端から拙作の自己評価を限界まで下げてしまうんです。
すると、評価されなければ「案の定…」と凹み、評価されれば「過大評価だ…」と凹むんです。
…とにかく、どうであれ、凹むんです。

そんな馬鹿な事止めれば良いのに、自分の作品なんだから胸を張れば良いのに。
凹むぐらいなら作らなければ良いのに。

そんなシンプルな疑念の答えには、僕の臆病さと傲慢さが見え隠れしています。

作品を誇り、万一打たれた時は耐え切れないんです。
怒りに身を任せて反撃するか、あるいは立ち直れないほどに凹むか。
作品を誇り、万一評価された時は恐らく自分を制御できないんです。
天狗になるうえ、驕って他者を蔑むか。
作品を誇り、万一誰からも見向きもされなかった時は…。

どれもに経験があって、それぞれで愚かしいほどに悔しい思いをして、結果的に臆病になっているんです。

でも。
それでも、作っている時は傲慢馬鹿なんです。
「今、世界で一番すごいものを作ってる!」
何度も何度も、そう繰り返し思い込めるほどには馬鹿だから
僕はこの下手糞な思考であっても作り続ける事ができています。

しかし何かが出来上がる頃には結局は情けないほどに臆病で
「自己評価を限界まで下げる」、そんな防衛手段にすがる事しか思いつかないんです。
そしてその手段を選べば、凹むしかない。

でもそれで正しいと思っているんです。
僕の場合、万一凹まずに拙作の帰趨を見届けられるようになった時は
周りが見えないほど天狗になった時か、無関心になった時かの何れかだと思っています。
それはきっと、もっと怖い。

だから、この「傲慢馬鹿」と「凹むしかない」状態を繰り返す…
情けなくて馬鹿らしいけれど、僕の場合はこれがまともな状態なんだと盲信しています。
しかし不思議ですよね、自分なりに思考の流れを分解したつもりでいるのに
どうしても凹むんですから、自分の精神状態というのは、本当訳分からんものです。


そんな思考の記憶はさておき、仕事合間に進めていた冒頭の落書も終ったので
ようやく次のアニメーションに本腰入れていきます。
まだいつ出せるかは分かりませんが
作り始めはとにかく「傲慢馬鹿」に、せっせと取り組んでいきたいと思います。
 2015 2015.01.05 新年明けましておめでとう御座います、今年も一年何卒よろしくお願い致します。

年明け早々、京都は数十年ぶりの大雪に見舞われたようで、辺り一面真っ白の雪化粧となりました。
九州育ち、北はギリギリ埼玉までしか足を運んだ事のないの人間としては、大変に貴重な景色でした。
雪玉を転がしたらあんな音がするのかとか、雪かきの真似事なんかもしてみたりして
兎に角一つ一つが新鮮でまるで子供のようにはしゃぎました。
…そんな26歳の正月でした、幸い通報もされずに済みました。
新年早々、とても有意義な時間を過ごせたように思います。

さて、2015年という事で自分の中で恒例化してきた今年の抱負を。
先ず昨年の抱負「大変を楽しむ」に関しては、近年の抱負の中では達成できたほうだと感じています。
というのも、前回の日記で散々細かい事から何まで書き連ねました内容を経過して尚
今現在飄々と過ごしているのが何よりの証拠です、割と色んな事をストレス抱えながらも楽しめました。
とは言え平常運転で、死にそうになる事は絶えずやってくるので、それはもうどうしようもないのですが…
最近は、それをどうやって乗り切ろうかと日に日に迷い出して何かと余計に憂鬱ですがw

話戻しまして。
そんな昨年を踏まえまして、これまでの抱負を振り返りつつ…

2009年「絵を描く!」
2010年「続ける事」
2011年「邁進」
2012年「迅速と忍耐」
2013年「不屈自立」
2014年「大変を楽しむ」

今年は…何にしようかと大晦日から結構悩んでいたんです。
それで悶々と考えた後にぼやぁっと見えた目標を抱えたまま、次の日初詣に行きました。
そうしたらそこで引いた御神籤にも、もうそれっぽい事書いてあったもんですから
2015年の抱負は「貫徹」に決めました。

こんな成りでもそれなりに色んな経過を見届けて
情けない自分を支えていた様々な過信や盲信が打ち砕かれて
少しずつでも確実に、足場が無くなりつつあるように感じています。
正直、もうどうして良いかなんて何も分かりません。
よく「今日事故にあって死んだら、それはそれでもうありがたい」なんて不謹慎な事も過るんです。
結末を見ずに死にたくない、その心理もすごく分かる一方で
結末なんて死んでも見たくない、そういう心情も激しくあるんです。
過信と不信の葛藤、なんて言ってしまえば本当にそれだけの事なんです。
その下らない問答を繰り返す度、少しずつ何かが何かに追い込まれているような感覚に襲われています。

だったらもうその問答も押し切って、自分が幼い頃に覚えた最初の感動を確かな道標とし
「一つ指標を立ててみるしかない」ともうだいぶ前から決め込んでいました。
その指標を元に、自分の過信や盲信の一つ一つを丁寧に、信じるに値するか推し量りたい。
そう考えています。
しかしその指標を作る勇気も中々でませんでした。
それこそ、全てが愚かな過信だった、という結末だってあり得るんです。
そんな怖ろしい事ありません。
でも、それを乗り越えなければ色んな事がぼやけてしまって仕方ないんです。

だから「自分の幼い過信を頼りに指標を作る」、これが2015年の目標です。
つまりは指標に対して、貫徹の二つの意「信じ抜く事・最後までやり抜く事」を以て今年の抱負にしたいと思います。

…当たり前ですが、結果は分かりません。
結果は何かの終わりかもしれません。
ものすごく不安です。
でも、同時にすごい楽しみなんです。
視界を遮る雲海に溺れているような今だからこそ
もしそれが晴れ渡った時にどんな景色が待っているのか…
考えるだけで、ワクワクせずにはいられません。
その景色を見届けられるよう、2015年も必死に喰らい付いていければと思います。

そんな訳で、今年も相変わらずの調子でせっせとやっていくので
どうか温かい目で見守って頂ければ幸いです。
末尾になりましたが、こんな乱文でも読み解いてくれる方々の
ご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げて、新年の挨拶に代えさせて頂きます。