DIARY02
彷徨日記
2023
失意泰然、
得意淡然、
素意端然。
失意泰然――
 失するに動ぜぬ形で在れ。
得意淡然――
 得するに驕らぬ為で在れ。
素意端然――
 毎するに弛まぬ生で在れ。

嗚呼彷徨譚――、
 うねりなき深淵こそを道と知れ。
 課題 2023.03.07 AI生成を駆使した、面白いアニメ映像が出てきました。
ANIME ROCK, PAPER, SCISSORS (YouTube)

熱量があって、独特の……、「海外から見た日本」ならぬ、「海外から見たアニメ」観もあって、とても面白いです。
また、しっかりコストをかけた「AI生成を駆使した映像作品」として、非常に興味深い作品だと思います。
前回、AIについての日記を書いたので、少し絡めつつの備忘録です。

上記作品の前提として……
・本作のための深層学習をしたAIを使用
・セルに当たる部分は、グリーンバックで撮影した人物モデルを下地にして、AI映像加工
・上記の処理能力を図るため(?)、セルに対してレタッチは恐らくしていない
・美術は別途、AI画像生成で用意?(映像と同時生成ではないと思われます)
・コンテ、エフェクト作画(※)、撮影、レイアウト等々は人力(※恐らくアセット素材?)
という辺りは、押さえておきたいところです。

改めて上記映像を観てみると、前回の日記で書いた内容が多少なり当てはまる映像になっています。

(1)パカパカする
瞳が特に目立ちますね、あと影は……、致し方ない部分と思います。
ただ正直、かなりの精度で抑えられている印象です。
現状の限界値に限りなく近いのではないでしょうか。

(2)連続性に耐えられない
実写を下地にしているにも関わらず、指がくっついたり頭がたまに服になったりと、細々と連続性は崩れています。
ただこれも、視聴に耐え得るレベルまでは達していると思います、すごい……。

(3)アニメの情報量は足りない
作画ものではなく、実写を下地にしているのは恐らく、
作画を下地、もしくは作画のような動きを下地とすると、パカパカや破綻が激しくなるからかと思います。
しかし情報量を補った都合で、上記映像はアニメというには情報量が多く、時おりセルルックの3DCGにもみえます。
加工に耐え得る情報量を持ちつつアニメ的な絵を作るのであれば……、
セルルックの3Dモデルの60fps透過映像を下地にして加工し、
24fpsに落してフレームブレンディングし12fpsで書き出す……、などであれば絵的には補える気がしてきました。
ただ、作画的な動きを追えるかは想像もつかないので、どちらかというとMMDの進化系になりそうな気も。


ここで別例をば。
実は、2006年の映画で似たような試みがあり、もっと大衆向けな仕上がりで完成しています。
……ここで「大衆向け」というのは、
パカパカせず、連続性を担保しており、既存映像の認知と大きく矛盾しない、という意で使っています。
A Scanner Darkly (YouTube)

こちらも、実写を下地に加工しているので、ある意味では似たような作りです。
ただこちらは、映像そのものを加工しており、人物だけ、背景だけ、という個別の処理はしていません。
しかし一括処理にも関わらず、前述の通りパカパカしておらず、連続性をある程度は保っています。
……何故かって、前回の日記でも書いた通り……、
人力で!
1フレームずつ!
描き直しているからです!
苦行!!

この映像が流行っていない理由はいくらか思いつきますが、苦行も一因だと思います。
本映画の制作、監督も、この苦行を「拷問のような作業」と形容している記事を見ました。
それぐらい、人間性を損なう作業なのです。
個人的に、自主制作や仕事でそういう作業を散々試みたからこそ、痛切に思います。
そして痛感しているからこそ、そんな作業を他者に発注するのは精神衛生的にも無理難題です。

2つの映像、AIが導入された事での最大の違いは、――“絵のタッチ”を変更できる事、これは劇的進化です。
従来型の0/1の判断に、膨大な資料の積み重ねを加算していく深層学習のもたらした変化は、凄まじいものがあります。
前者のような、新しい映像、新しい表現が現れて、楽しみ方も大きく変わるかもしれません。
しかし後者を考えてみても、前者の諸々の課題を解決するには、人力による苦行が不可避のようにみえます。
……その“苦行”の部分にこそ、AIの力を貸してほしいのになぁ……。
と、ここまで長々と書きつつも、僕が“課題”とした事を課題とするか否かは、
文化の土壌たる大衆の決める事だと思うので、劇薬を投じられた娯楽表現の帰趨を見続けたいと思います。
AIの話は、触れ続けると止め処もなさそうなので今回で一区切りにしておく心算です。


……という話題は実は、今回書きたかった内容ではないのです。
10行ぐらいで収まると思ったのに……、ここから本題です。


本題は、土日確保できているのか、という事に対する進捗です。
1月の仕事で一区切りをつけてから、土日を使って、
ここまでの仕事で培ってきた事を綯い交ぜにしつつ、自分の中の次の画作りをしておりました。
(すごい映像のあとに出すのは忍びないものです……)

霧中の街(5秒ループのミニアニメ)

悲しき哉、画作りについては補足しないと突っ込まれそうな画です。
最初期より続けてきた、「生きている空間づくり」は何も変わらず継続中ですが、
ここ数年で改めて二つ、大きな指針を立てて、画作りを模索しておりました。
・100時間見ても疲れない画作り
・制作工数の軽量化

前者について。
映像は求められる媒体、表示時間によって画作りを変えるものです。
例えば、コマーシャルと映画とでは、色作りをまったく変えてしまいます。
コマーシャルはより刺激的で、下手すると「目に毒」ぐらいの鮮烈な色作りを目指します。
短尺だからこそ許される、驚くような刺激を使った眼を惹く画作りです。
映画は、コマーシャルに比べ遥かに長尺だからこそ刺激的な画作りは控えます。
そういったバランス感のある中で、僕の作ろうとしているものは「ダラダラと、腑抜けて観る映像」です。
ならば、刺激は最小限にしたい、観てくれている人に負担にならない画にしたい、という辺りで模索しています。
それが、やたらとくすんでいる理由です。
……、僕自身が知覚過敏で、ブルーライトやらを忌避しているのも大きな要因ですが……。

後者について。
できれば2日で完了したかったのですが、綯い交ぜ作業も兼ねたので、上記映像を作るのに3日かかりました。
世間一般の相対の中での早さは分かりませんが、以前の自分と比較すれば雲泥の差です。
同等水準のものを作るのに、以前なら5日は要しただろうと思います。
似た映像を10個作るなら、単純計算で20日の差です。
劇的な差分を生んだ要因は、数年前に3DCGを導入したことです。
もちろん、今でも拙い自分の手描きのほうが、幾分か魅力的に描ける箇所もあるとは思うのです……、たぶん。
でも、潜在的な満たされたい自尊心と、視聴する人が観たい、触れたいものとを考えた時に、
僕自身の下手の横好きの発露は「どうでもいいな」と、今はそう決め込んでいます。
とはいえ、3DCGと2Dの作画、別次元のものを並べてしまえば違和感は避けられません。
目に見えて馴染んでいない映像では視聴者も入り込めないので、その塩梅探りは延々続いています。
異なる次元で描かれた表現の馴染ませ処理については、もう数年も調整を続けています……。
今の上がりでも、業界人に見せれば「浮いてる」と唾棄されても何ら不思議ではありません。
けれど、僕が作りたい表現をするための要件は満たしつつあるので、次の工程に移ろうと思います。
研究検証は、今後も絶えることは無さそうですが、それはそれでとても楽しいので、前向きです。


という事で、次は……、
埃をかぶってしまった青き野心を、掘り起こしてこようと思います。
今年こそ。
 伴 2023.02.17 前述の記事で、特に企図なく"AI"について触れたので、
画像や映像系の創作物の生成系AIについて、偏狭な雑感を少しばかり。

大前提として僕個人が、
・AIに対して、碌な造詣もない
・旧来よりの作り手として、少なからず在来工法に固執している
という2点を含んだうえでの所感になります。


まずに、AIについてどう思っているか――
個人的には、半分好意的、半分否定的です。

好意的な部分について、
在来工法における「過程に伴う価値の乏しい雑務処理」の、“新たな”自動化、効率化の可能性に期待しています。
“新たな”、と殊更に強調したのは、これまでもプログラムによるそれらは日進月歩で凄まじく進んでいたからです。
また、プログラムによる最適化は再現性、安定性の高さも相まって、
ヒューマンエラーのリスクをも軽減する非常に信頼性の高いものでした。
一方で、僕個人の肌感だと、AIはその辺りに浮動性があり、現状での導入は少々怖さもあります。
この浮動性こそ従来式のプログラムの0/1の概念とは一線を画する可能性だと思いますが、
同時に0/1で処理するからこその安定性、信頼性であった点を鑑みると、単純な置き換えには難しさを感じます。
ただ逆説的に、0/1では自動化、効率化できなかった部分への処理の可能性は十二分にあり得ます。
そういう意味で、雑務の新たな軽量化への期待値は確実にあります。
……ヒューマンエラーならぬ、AIエラーが新たなリスクとして顕現する可能性もあり得そうですが……。

否定的な部分については、二つの観点から触れていきます。

一つは、現状AIの生成能力の問題です。
個人的に、AI的な処理をする映像用ツールは数年前から散々触れてきました。
が、一つも実用に至っていません。
実用に至らなかった理由は複数あり、
(1)パカパカするのを制御できない
(2)再現性が乏しく、映像の連続性に耐えにくい
(3)作画による映像は情報量が乏しく、トラッキングすらまともに機能しない
という、恐らく今後も解決しないであろう問題を抱えていたからです。

(1)(2)について、これはパカパカする映像、と割り切らないと恐らく処理不可能です。
というのも、映像自体が絵、色の連続性で成立しており、それらの規則性はあまりに複雑だからです。
ある一点のドットが青色だった場合に、1フレーム後に赤に変わる可能性は低いにしろ否定できないため、
全てのドットは常に変動的である必要があり、一方で色面の連続性を担保しなければならない部分もあり――、
という複雑な処理を、二次元的に加工していくのは極めて難題だろうからです。

(3)については、アニメならではの特殊な問題です。
写実映像などでは、画面におけるドット単位での情報量が非常に多く、それらを追うことは容易いものです。
しかし作画は、とにかく情報量がないうえ、その情報量すら安定しません。
……例えば、
キャラクターが画面のすぐそばで腕をふりかざして一瞬、画面全てがキャラクターの肌色になったとして……
人はそれを「キャラクターの腕だ」と解釈してくれますが、AIからすればそれは只の単一色でしかありません。
連続性の中で解釈しようとしても、どこの肌部分を映しているのか判断するのは難儀です。
アニメという表現自体が、人間的な補完能力に酷く依存しているため、この辺りは単純に不向きです。

という課題に気付きつつも、これらの解決方法も理解しています。
(1)(2)については、もう至極単純です。
AIが書き出したものを、人力で手直しすればいいのです、1フレームずつ。
あるあるです。
実際に、そういう作業を試みた事もあります。
……なぜ、それを今は取り組んでいないか――、言うまでもなく、ただの苦行だからです。
(3)に関しては、飛び道具での解決方法があります。
セルルックの3DCGを使えばいいのです。
上記すべての問題を回避する方法として――、AIを「過程」のほうにねじ込むのです。
例えば、3Dのモーション生成であれば、AIは使い所が沢山あります。
多少のAIエラーがあっても、手直しできる物量です。
なのでAIの生成したモーションをセルルックの3Dモデルに埋め込んで書き出せば、
連続性・情報量の問題を同時にクリアできます。

……要は「手段(制作方法)の為に、目的(成果物)を差し替えれば解決できる」という事です。
個人として、そういう判断をしてきたことも多分にありますが、
AIによるその差し替えは影響が甚大な為、現状では個人的な許容範囲を逸脱してしまいます。


もう一つは、まさに今触れてきた部分で、「過程の価値の棄損」です。
僕個人の所感として、世の中には「過程」が楽しいものと、「結果」が楽しいものとあるように思います。
あるいは、「過程」を楽しむ人と、「結果」を楽しむ人と、でも問題ありません。
その、「過程」と「結果」との工程から考えていった時に、
AIの自動化は「過程」を煩雑に圧縮する行為なので、物事を根本的に退屈にする可能性を憂慮してしまいます。

「過程」の苦痛と、「結果」の喜びは、良くも悪くも比例関係にあると考えます。
尤も、苦痛であったからこそ良い結果であったと思い込みたい心理が働いているとも取れます。
しかしそれでいいのです、勘違いで良いのです、主観で良いのです。
主観でも「良い結果であった」と思えたら、その道を歩み続けられますから。

懸念しているのは、「過程」が圧縮されたことで「結果」に対する喜びが目減りする事です。
「過程に伴う価値の乏しい雑務処理」の感覚で「創作の過程全般」を省くと、
恐らく創作に飽きてしまうだろうと思います。
そしてAIに圧縮できる過程が、必ずしも雑務処理ばかりではなく、
「総体的に楽しめる過程」である事もあり得、またそれを無自覚にやりかねません。

……という、作り手側の理屈を並べると、消費側からすればどうでも良いように思えるかもしれません。
ただ僕自身、消費側でもあり続けていて、この状況は単純に不安です。
というのも、自分自身がのめり込んだ物の多くは、
途轍もない過程の果てに生じた、という文脈を含めてこそ楽しめたからです。
AIこそ途轍もない過程の結果だ、と考えてみても、
AI自体がその途轍もない過程のすべてを圧縮した結果であり、そこから人間的な文脈を感じ取るのは困難です。
文化は裾野があってこそ。
楽しい過程が減る事は、過程に費やす人が減る事に繋がり、それらはどんどん先細ってしまう――、
そういう懸念も覚えています。


という二つの懸念もあり、半分否定的です。
……文章量がまったく等分じゃない辺りに、自分の感情的な部分を覚えます。

とはいえ、アニメ業界的な観点からも最適化して欲しい部分は幾らでもあります。
制作進行さんにとって負担になり続けている、デジタル/アナログの繋ぎ作業全般や、
作業者の進捗管理、データ管理等々……、完全な自動化は難しくとも軽量化はできたら良い、と思案しています。
他に、原画から動仕への清書着彩作業、――恐らく業界人が一番望む部分――、
こちらも部分的には軽量化できるとありがたい限りです。
ただ現状の深層学習の仕組みだと、物量の乏しさ、傾向の不規則性、原画の精度のバラつき等々……、
完全な自動化は当面無理だろう、という感覚はあります。
これこそ、前述の(1)(2)の対処が求められ、AI出力後の人力による修正は不可避だと思います。
ただこれは、いわゆる動検さんの作業領域なので、実のところその対処は無理なく出来ると思うのです。
がしかし、動仕作業が無くなる事で、動検さんをどうやって育てるのか、という課題に直面するでしょう。
ただでさえ動検さんを探すのが大変な所に、更に需要が高まる形に……。

という具合に、色々一筋縄にはいかないだろうなぁと思います。
自動化したい部分は痒いまま手が届かず、自動化を求めていない部分は自動化できてしまう――、
過渡期の今だからこそでしょうか、厄介な課題だなぁ、そんな心象を抱いています。
 仕え先 2023.02.03 サイトを更新しました。
昨年分の仕事のあれこれを羅列した次第です。

仕事の在り方について、更新したテレパスamvを一つの区切りにしたいと思っています。
これまで、ライスワークとライフワークを混在させており、長らくその齟齬に悩んでおりました。
数年前にそれらを切り分けて、仕事はライスワーク、としたのですが、今度はライフワークの時間を失う破目に。
なのでこれからの仕事は「並行していく課題」として切り替えて、
仕事はライスワーク、制作はライフワーク、として両立できる良い形を模索できたらと思います。
……これは本当に、本っ当に、難しい事ですね……。
今年の抱負の「土日の確保」は、まさにこれに根差しているので、足掻いていきたい次第です。


テレパスamvについて、二つだけ。
一つ、制作体制については、予てより試みてみたかった体制でした。
それは、外部スタジオに動仕のみを発注、即ち、
作画の2値的な清書と着彩のみをアニメスタジオへ外注し、他は個人で回す体制です。
これならば、マネージメントコストを最小限にしつつ、自分の色を薄めずにできる体制だと考えていた訳です。
実際どうだったかというと、想像以上に期待通りの体制でした。
実働2ヵ月で完了した事と、割り切りやすい諦観と、それぞれに奇妙な納得感がありました。
……とにかく、自分の力量を恨んで諦めるしかない、これがとてもシンプルで、自主制作のようで良かったです。
二つ、ビジュアル周りは、自分の中で納得できる水準にまた少し近づけたように思います。
「バケツの中のかか」という、デジタル制作だのにアナログ性ごりごりで出現してしまった拙作が、
自分の中の澱として残り続けてしまい、デジタル的な画作りに対する強い忌避を産みました。
しかし、デジタルを否定したら環境的に制作困難になってしまうので、共存する策を思案してはや15年。
ようやく、自ら忌避せずに向き合える画になってきた……、と思います。
……来月には「デジタル臭ぇ……」となっているかもしれませんが……。
AIが闊歩する最中、いまだデジタルアナログ大戦を繰り広げている事に拙い老兵さを感じますが、
懲りずに向き合えたら、と願っております。


ところで、彷徨日記に朗読を引っ付けてみました。
声色の印象に引っ張られるのもなぁ、という事もありまして、2種類の声を交互に充ててみようと考えています。
まだ試運転ですが、使い勝手が良ければこのまま運用してみようと思います。

……恥ずかしながら、自分の書いた日記を読み直すのは抵抗もなく好んでいて、
よくよく読み返し、音読し、違和がないかと公開後も推敲を繰り返してしまいます。
しかし更新頻度を上げると、この癖が作業時間を無駄に奪うため、
片手間にできるように、朗読を用意しようと思い至りました。
好きな劇伴、音楽を流しながら聞くと、良い感じに耳が奪われて、すこし面白いです。
……、自分のアニメーションを見返すのはいつだって苦痛でしかないのに、不思議なものです。
 八重の網目 2023.01.20 ……、昨年末から引き続いている現行案件を完了次第、土日を作りたいなと思っている次第です。
と、嘆息ごとき触れ込みですが、元からその予定なので、まだ想定通りです。
案件完了が少し手こずりそうなのですが……、来月あたりから諸々が始動できればと目論んでいます。

という事でそちらはさて置き、久方ぶりの沈思の備忘録です。


もう幾年も遡りますがかつて、
――個に生きる価値はない
という切実な落ちに至った、迷走の思惟を書き記した覚えがあります。
脆弱な心身を抱えているが為、当時は生に伴う苦痛に耐えかねて、耐える理由を欲して長い自問自答に至りました。
恐らく、誰かに何かに「生きなければならない」と、反駁の隙なく叱られたかったのだと思います。
しかし得られた自答は惨めなものでした。


“生きる”とは何か――、定義を求めた勘考の果てに得た自論。
「事象を捉え咀嚼して自己同一化し、自己増幅を図る行為」。

いち個人として、生きたい理由はなかった。
明瞭に、生きる事が苦しかったからだ。
能動的に生きるならば、自らの傲慢な加害性に目を瞑り、
受動的に生きるならば、脆き心身を啄まれてなお口を噤まざるを得ない、そう妄信したからに他ならない。
その塩梅は難儀を極め、いち個人には、生きるはとても厳しかった。
ならばもう少し大きい枠組みで、家族に属する命としてはどうだろうか。
そこには確かな同一化を自覚すれど、生きる苦痛に値するだろうか、分からない。
ならばもう少し大きい枠組みで、地域としての命ならばどうだろうか。
……思えば、郷土愛など殆どなかった。
ならば、国家の礎、社会、あるいは人種ならばどうだろうか。
郷土愛がなければ、国家にも人種にも大した思い入れもない。
それらに感謝や親しみはあれど、啄まれた記憶と同一化し損ねた体感とを抱え、共に生きるは身に余る。
ならばもう少し大きい枠組みで、人類としてはどうか。
そう考えた時に、初めて命の価値を覚えた。
命の価値を、命を繋ぐ価値を理解できた。
生きる加害性を、正当化できる気がした。
少なくとも、この空間に水素原子を延々漂わせ、宇宙を形成し、星を成し、
そこに生じた奇妙な化合物、その一縷の突端を少なからず担っているのが、人類である筈だ。
その奇跡的なめぐり合わせの橋渡しを幾星霜、厭倦なく、自戒なくくり返している道中なのだ。
始まってしまった同一化と、飲まれていった無数とを思えば、此処で断っていい道理など理解できそうにない。
膨大に思える人類を考えれば、いち個人は取るに足らないが、
皆が皆、そう思いながら繰り返してきたからこそ今、その突端に在るのだ。
そう思えば、この命には価値を感じられた。
生きるは厳しいが、今この瞬間までは、生きるを為してきたのだ。

――だが、その突端に、その先に何があるというのか。
同一化を繰り返し肥大化した得体のしれぬ自我らしきに、なんの価値があるのか。
環境適合し、残存可能な化合規格を繋ぐ事に、なんの意味があるのか、分からない。
ならば、もう少し小さい枠組みで、この化合物は、隣を飛ぶ蚊と何が違うのであろうか。
分からない、恐らく何も違わない。
自らの命の価値、あるいはこの化合規格の価値は、今日までを凌ぎ突端を担い続けるこの蚊と等分だ。
ならば現存する化合物その何れとも、等分の価値として異論ない。
人類の特殊性など取るに足らない、連なった文化文明も、環境適合に必要な処方箋であったに過ぎない。
すると、この身形が続いていようがいまいが、突端を担う別の何かに同一化されるだけだ。
ならばやはり、この命に特別な価値は何もない。
家族や知人や人々が、お互いを慰め咀嚼し合うように「価値がある」と言い合うしかないのだ。

煎ずれば、唯一価値として認められそうなのは、未踏の開拓だ。
そこに価値があるか、まだ分からないからだ。
そして、今ここでその連続性を断絶してしまうと、飲み込まれた無数も等しく絶たれてしまう。
畢竟、人類として化合物として、残存最適解を繋いでいく一端としてしか、生きる価値を見い出せなかった。
個にとっては、卓越した演者となるか、蒙を固持せぬ限り、生きるは苦痛としてあり続けるであろう。


――かつてに、そう思い至りました。
今も、その価値観は大きくは変わりありません。
死による最大の自由、希死念慮だって未だ明瞭にこびり付いています。
敢えて変化を思えば、子と出会えた事で、橋渡しは懸命に成し遂げねばならない、という観念は芽生えました。
その橋渡しを為す道中、とある主観の近傍に於いて相対的に自立する人となった今、
巧みに舞いきる為の、弥縫策がごとき処方箋でいいから何か作れないか、と願いばかりが根付きました。

そんな道すがら、ふと、雑な結論で逃げたのではないか、と再考するようになりました。
と云うのも、異なる次元で起こる動機、欲求、理屈を、実に雑に、“個”の課題として扱う事に違和を覚えた為です。

生きる価値は、子を繋ぐ理由は、社会貢献する動機は、逃げ出したい性根は――
それらは、“個”に有ったり無かったりする筈です。
それは、前述の思惟の中で雑に巡らせた枠組みに散りばめられているように感じられ、
ある時は人類として、時には社会の一要素として、あるいは家族の、地域の、化合物の中にもあり得る筈です。
それらが“個”に起因、或いは結びつく場合もあれば、もはや個とは切り離されている課題も多分にあり得ます。
網目のように張り巡らされた八重の階層の中に、それらは煩雑に点在して絡まっているだけのよう。
発現した感情一切が、必ずしも“個”から生じたものではない事を、実に巧みに誤魔化しているようです。
しかし丁寧に解いてみれば、個に生じる多様な願いは滅裂の場所から発されていると、理解できる気がします。

帰する所、個として抱いた疑懼たる“生きる価値”は、“個”に紐づいていないだけだったように思います。
考えてもみれば、至極真っ当な、当然のお話でした。

八重の網目の社会の中に在って、多様に重複しながら属している命として、
発露した合切の感情を一つずつ発生源まで潜っていけば或いは――。
いま一度、試みてみたいと思います。


そうして分別していく内に、嫌なお題に気付くのです。
「自身の生きる“目的”は――」
これは多分に、“個”に課されたお題です。
そしてこれは、誰かが何かが「これが目的だ」とは云い得ないものです。
“個”が自らに対して設定しなければならないお題だろうからです。
化合物だから、人類だから、日本人だから、……、それらは適わないように見えます。
どれだけ目を背けても棚上げしても、加害性を以て生きるを続けている。
続いてしまう理由が、個にあっても無くても、それを自覚して継続している以上、
他でもない、“個”の意思によって続いているのです。
ならば、その目的を明瞭化し正当化せざるを得ない実情に、今になって気付きました。

自らの性質が故に欲する先――、
抉るほどに分かっているからこそ、また別の困難を覚えています。
 おはよう 2023.01.09 明けましておめでとう御座います。
云々。

さて、今年は例年になく、順当な頃合いに適当な日記です。
昨年の思料は年末に為したので、早々に今年の抱負をば。

2009年「絵を描く!」
2010年「続ける事」
2011年「邁進」
2012年「迅速と忍耐」
2013年「不屈自立」
2014年「大変を楽しむ」
2015年「貫徹」
2016年「突破口へ」
2017年「突破る」
2018年「生涵養」
2019年「“雨雲の少年”を仕上げる」
2020年「進境地」
2021年「果架」
2022年「Finish the fight.」

……、これだけ抱負を連ねると、ある種の流れも見えてまいります。
断ずればそれは、――ふわふわの抱負を掲げると、ふわふわの内に終わる――です。
……。
という事で、今年は為すべきが明示された抱負にしよう、と考えました。

隔週記と土日との確保

実に明瞭です。
前者は、これだけ腐らせた日記を、いきなり“日記”たらしめるは厳しかろうので、
せめて月2回は更新したい、という切実なものです。
後者は、これまで散々に抱負に掲げて実現できなかった、“雨雲の少年”。
これを実現するための時間作りをする、これに尽きます。
そして、その経過・実情はどうか、月2回程度の頻度で都度考量して記す、そういう企図です。

更新回数を増やす分、個々の記事については内容も浅薄になるだろうと思います。
鬱屈とした寄る辺なき感情の発露となる事も、ただの活動の週報らしき事もあろうかと思います。
何れにせよ、いじましい彷徨の足跡として残せれば、と願って努めてまいります。

疾く疾く、抱負を掲げての記事でした。
それでは結尾――、
多くの方にとって幸多き穏やかな一年であることを祈念して、新年の挨拶と代えさせていただきます。
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