DIARY02
徨日
失意泰然、得意淡然、常々端然
 希死念慮の後追いに 2018.05.30 ふと思い立った、先日の“希死念慮”の追記的な話です。

“生きる”に意図を求めて、能動的に生きようとするのは思いの外に難儀な事なのです。
気が緩むとすぐにも
「生きている事には意味はない、目的はない」とか
「死ぬまでの暇潰しだ」なんて
沈思に及べなかった浅薄な見解が、思わず脳裏を喧伝して周るのですが
暇を持て余しているならば、それは立派な思考放棄だと断ずるところです。
“手を動かして絵を描く”という行為は、割かし脳みそに暇を与えるものだと個人的には感じていて
だからこそ、こういう意地悪な題材が降って沸いた時に、勘考を試みるのです。

“生きる”と向き合う時に、或いは“生きていて欲しい”と願うモノと相対する時に
「目的なんかないけど、個人的な我侭で生きていてくれ」というのはあまりにも忍びないのです。
……でも、今の僕にはそれしか言えないので、時おり我侭にも「元気でいてくれ」と言ってしまうのですが。

かと言って、僕にはまだ「この世は生きるに値する」と断言してみる事も難しいのです。
だから、“生きる”をずっと探るのです。


少し前に書きましたが、ニーチェの見解から、僕は“生きる”という行為を一括りに定義しました。
――事象を捉え咀嚼して自己同一化し、自己増幅を図る行為――
これを、“生きる”行為なのだと、個人的な解としてとらまえたのです。

食事を取る事も、絵を描く事も、子孫を残す事も
嬉しいも悲しいも幸せも不幸も、全てをその因果で以て理解できる気がするのです。

生き物の“生きる”の明確な目的として、子孫を残す――即ち
自己保存という形で自己増幅を図る事は、一つの解だと思います。
しかしこれは、僕の中で二つの意味を以て崩壊しつつあります。
一つは、散々議論されているであろう外部記憶という概念。
これは何れ、古臭い自己保存方法である“子孫”という形態を壊すだろうと思います。
もう一つは、自己増幅の果て、“生きる”の終着点です。
……切磋琢磨して優れた合成体を生み出して、一体全体何処に辿り着きたいのか。
長い年月かけてそう仕組まれた“生きる”ものたちは
本来あったであろう大きな目的を、もう達したのか忘れたのか知る由もありませんが
もはや意味不明なままに、果てなき大海を溺れ彷徨う空しい塊も同じです。

個にとっても、種にとっても、もはや“生きる”は行方不明なのです。

だからこそ取り急ぎ
何だかんだで身についた良く分からない能力や特殊性で暗中模索を繰り返し
些細な藁でもよいから、探しているように感じています。
喜びも悲しみも幸せも瞬く間、どれだけ得てもあっという間に消えてしまう。
ならばそれはきっと、ただの浮き沈みの息継ぎでしかなく、“生きる”目的には足り得ない。

無限の安堵に浸れるような、小さな島でもあるのだろうか。
観念したように、溺れながら生き永らえて
最期には沈んでいくのが“生きる”の終いなのだろうか。


“生きる”は、単純でとても複雑で……
ただ一つ、誰かに「生きていて欲しい」と願えるぐらいには、“生きる”の価値を感じたい。
そんな風に、今日も溺れるように沈思に耽るのです。
 希死念慮の虫食みと、共生の果て。 2018.05.21 ここ最近になって、“希死念慮”という言葉を知りました。
“自殺願望”とは似て非なるもので、“希死念慮”とは漠然と、死に焦がれている状態を指すのだそうです。

前々から度々文字にしている、“死による最大の自由”という価値観で、未だに自らを虫食んでいるですが
その感覚はもしかすると、その希死念慮という言葉が、最もそれらしいのかもしれません。
こういう言葉がある以上、恐らく、こういう訓えの宗教だってあるのではないかと思います。
しかし蒙昧祟って、その擬似共感には未だ満足にありつけていません。

ただ、自身を一つ一つ分解しながら、知識として知り得る最小構成にまで立ち返った時に
合成された不自由さと、分解される自由さとは、必然的な結論に感じられて
そういう一つの歪な解に至る人が、少なからずいるという事は、僅かばかりに独り善がりを救ってくれました。

こうした歪な価値観が根強く蔓延るからこそ、僕は不毛な自問自答である
「個を超越した“生きる”という価値観」を探し求めて止む無いのです。
個を超越した先の、群れや、種や、社会や、時代や或いは宇宙の流れの中に、意味も分からずに潜っていく。
そうして得られた見解は畢竟どこまでも主観的で
脆く淡く、時によって揺らぎながらたゆたう、水面に浮かぶ藁の如き価値観でしかありません。
それでも溺れている今は、縋りたくて仕方が無いのです。


ところで。
数年前より、“デグー”というげっ歯類を飼っています。
どちらかというと小さな犬と接しているような錯覚を受けるほど、とても人懐っこい生き物です。
その人懐っこさや豊かな感情表現が、時折こちらの胸を絞めます。
「こんな人間と暮らしていて、果たして良かったのであろうか、もっと幸せな生き方もあったのではないだろうか」
生き物の飼い主なら、誰しも一度は過る事だろうと思います。
しかし考えても仕方なし、今に至る道筋は、何処までも一本道なのです。
何れかで割り切って最善を尽くせばよいだけの話。

……だのに、何度となくその問は脳裏に過るのです。
自らの“生きる”を求める度に、デグーにはその思考の自由さえ与えられていない実情が浮かび上がるからこそ。
自らの“生きる”さえ分からない裡に、数多の“生きる”と複雑に絡み合っていく。
何一つ侭ならない不自由さをどこまでも鮮烈に突き付けられて
希死念慮に逃避性が備わる事で、それは自殺願望に似偏っていく――。


不可解な事に、そこまで至ると不思議と一つの解放感を覚えました。
「何れにしろ死んでしまうなら、それまでは好き勝手に生きてみよう」
「希むだけあって、死は気にしなくてもいずれ来る」
そんな無責任な生き様が、ここ最近を何となく繋いでくれていたように思います。

ただ、そんな宙ぶらりんな状態にも、間もなく終止符を打たれます。
もう間もなく、子供が産まれてくる予定です。
……未だにこんな事を喚いている野郎が、新たな“生きる”を授かろうとしているのです。

「なぜ“生きる”のか」と問われて、胸を張って答えるものがありません。
漠然とした消極的な答えが、蒙昧な思考の中で燦然としようとも、理性はそれを簡単に圧し込んで
無味乾燥に培った社会性で「大事な人を守る為だ」なんて言うのでしょう。
いつまで誤魔化せるだろうか、ちょっと不安です。

しかし何れにせよ、どこかで胸を張れる解を持たなければ、きっとデグーと同じ事を繰り返してしまう。
我侭にも「“生きて”いて欲しい」と言えるだけの“生きる”価値は、一体どんなものだろうか。
今はまだ、想像に難い価値観です。
 オロチと、これからと 2018.05.08 先日、予てよりお伝えしていた“作画欲求むき出しの作品”として制作した
オロチという短編PVが公開になりました。
Orochi Manga PV - Japanese mythology (YouTube)
お陰様で、緩やかなペースですが着々とご視聴を頂き、楽しんで頂けているようで誠この上ないです。
……ここまでがっつりは久々だったので、本当に安堵の限りです……。

改まって多く伝えるような作品ではありませんが、精魂を込めて制作したので簡単な備忘録だけでも書こうと思います。

本作、昨年12月の下旬から絵コンテに取り掛かり、2月の頭まで絵コンテのブラッシュアップに努めていました。
僅か1分尺の映像だと思うと、えらく贅沢な使い方のように思います。
……業界的にどうかは分からないのですが、個人的な経験則としては、えらく贅沢だったのです。
そこから、2ヶ月強かけて、作画と背景と撮影処理と、並行しながらどんどん仕上げていきました。

とにかく“作画欲求”に従順でいこうと進めていたので
日本アニメの生んだリミテッドな作りは一切考慮せず、パーツ分けもせず
ただひたすらに「動け動け!」という、脳筋な画作りとなりました。
作画に尽力してくれたスタッフ方は地獄だったろうと思いますが、終始作画の質を落とす事無く……
寧ろ、終盤ほどクオリティを高めん勢いで仕上げてくれたので、本作が成立したように思います。

しかし本作の“作画欲求”は、これまでのものとは少し毛色も異なります。
というのも、本作の作りの根本的な方針として「飽く迄、映像」という方向性で考えていたからです。

僕が個人的に感じていた、アニメーションを作る時の分裂――
即ち「絵としての画」「作画としての画」「映像としての画」という三つがあり
今までは殆ど前者二つで画作りを積み重ねてきました。
でもふと「アニメだって、そもそも映像じゃないか」と思い立ち
その土台あっての“絵”であり“作画”であろうという事で、今回は「映像としての画作り」に努める事にしたのです。

その結果、作画が作画ではなくなり、絵は絵ではなくなりました。
映像を構成する為の重大な一要素として、それらは鳴りを潜めて縁の下の力持ちのような振舞いに感じられたのです。
すると仕上がったものは拙作の常連であった作画を衒うような場面も、絵を勝ち誇るような場面もなく
ただただ映像として機能したような感覚が真っ先に生じました。
新たに、映像を見せびらかそうとする場面も生まれたように思いますが……
しかしひっくるめて予想外の感覚で、ちょっと面白おかしく思っていたりします。

しかし当然に、綻びは山積して、改善すべき課題、立ち向かうべき難題だらけにもなりました。

オロチを区切りに、がっつり映像作りは一段落にしようと考えていたのですが
まだ首の皮が僅かばかり繋がっているようなので、今回生じた沢山の課題と可能性とを、今しばらく吟味してみたいと思います。
 ダンケルクの再考 2018.04.20 少し前に、地獄の「ダンケルク」を見てきた、という話を書きました。
その際の感想として
「映像・音響としての完成度は抜群、戦場の臨場感も凄まじい、ただ娯楽性は少し乏しい」
といった内容を書きました。

それからというもの、映画館で見てから数ヶ月としない内にダンケルクの映像を購入し
何度となく作業傍らに再生していて、ふと――随分と浅薄な視聴の仕方をしていたのでは――と再考に迫られました。
というわけで、ちょっとした映画の掘り下げです。
「ネタバレがっつり、主観がっつり、根拠は碌に無し」な内容については事前にご了承くださいませ。
あと、何気なく映画を見る場合の感想としては上記の感覚が結局全てゆえ
あくまで個人的な、フリーキーな感想としてお目通しくだされば何よりです。
前置き長くなりましたが、それでは再考です。


映画「ダンケルク」の全体的な構造として
陸・海・空という異なる三舞台が存在し、それぞれ異なる時間軸、異なる戦場での戦いを描いています。
それらは時に交わり、時に因果になりながら、ダンケルクという戦場での物語を展開していきます。
舞台や時間軸、展開など、簡潔に見えて実に複雑な構造をしている事もあって
本作は意外にも汲み取り難い映画になっているのではないだろうかと思います。
また恐らく、パッと観た初見時に明らかに引っ掛かる点が四箇所ほどある筈です。
一つは、船の青年の心変わり
一つは、船の少年の死の扱い
一つは、帰国後の老人の行為
一つは、最後の主人公の面持ち
それらも一つずつ丁寧に再考してみます。

先ずに、そんな本作の主題を探ってみると恐らく、“戦場の狂気”と“戦争の英雄”ではないだろうかと至りました。
“戦争の英雄”については、観てのままの題材です。
“戦場の狂気”については、海での冒頭の救出者とのやり取り
「シェルショックだ、正気じゃない。……、もう、元には戻れんかも知れんな」
という箇所からも明らかに汲み取れる、大きな要素ではないかと思います。
これらの題材が、三舞台で三様に繰り広げられていきます。

先ず、陸について。
ここでの主たる(判り易い)英雄は、主人公の青年(トミー)ではなく、桟橋の先端で指揮取る司令官(陸軍大佐)です。
「小を捨て大を取る」そんな選択の連続を迫られる中で
正気を保ちながら大多数を救い出していく有能な司令官として描かれます。
陸には副たる(判り難い)英雄もおり、それは主人公等、生へともがき続ける兵士たちです。
彼等は何を為す訳でもなし、ただ生き残ろうと狂気の中を駆け巡ります。
陸での狂気は、誰もが感じるであろう開幕から蔓延している開放的な閉塞感です。
いつ死んでも可笑しくない状況下で、徐々に心の余裕を失っていき、少しずつ狂気が膨らんでいきます。

次いで海について。
ここは三舞台の中でも少し特殊で、英雄は船に乗り込んで、道中で絶命してしまう少年(ジョージ)です。
いわゆる英雄的な行いをしたという英雄ではなく、英雄として祭り上げられ
戦争の士気を高める為に、“利用される英雄”(新聞記事になる)でもあります。
そして海では、狂気を徐々に体感する場所として描かれています。
これが地味に、映画で一番重要で、一番理解し辛い箇所なのではないか……と、思います。

そして空について。
ここでは明らかな“戦争の英雄”を、優秀なパイロット(ファリア)中心にとことん描き続けます。
しかしその英雄的な判断は、正気の沙汰ではなく正に狂気であり
その狂気は他の英雄らによって感化されたものでもあります。
余談ですが恐らく、ノーラン監督の映像的な欲求がこの上なく発揮されてる舞台でもあります。
そんなに数多く見てきた訳でもないですが、ダンケルクの空中戦の浮遊感は類を見ないほど圧倒的でした。

以上が、主題からふわっと俯瞰した三舞台の様相で
それを前提に掘り下げていくと、表層面に反してそれぞれが矢鱈に複雑な仕組みであるように感じられます。
上記の俯瞰した様相から、それぞれの場面をより掘り下げて観直していきます。

恐らく、映画的には意味合いが一番薄く、映像特化の舞台である空から再考していきます。
空は、非常に記号的に描かれています。
飛行機自体も三機しか出していないのに、マスクやゴーグルで人物の視認性が悪い為に
開幕からリーダーを落として二機に絞ります(リーダーに関しては一瞬も映らない声のみの出演)。
これにより、現場の指揮権限が英雄であるファリアへと移り、彼の判断が際立っていきます。
その後に彼は結局独断で、自己犠牲の果てに自軍の救出を選択する訳ですが
その流れは地味ながらに大きな感情のブレがあります。

冒頭、ファリアは「カレーのほうが近い」と、ダンケルクではなく別の戦場の救出案を投げかけます。
しかし実際には、カレーにいる少数の自軍を囮にして敵軍を足止めし
その間にダンケルクにいる大多数の自軍を救う作戦なのです。
ファリアは「小を捨て大を取る」選択に理解を示しながらも、遺憾そうな様子で任務に入ります。
敵軍機を幾つも落としながらも、燃料が限界に近いタイミングで
ダンケルクに迫る爆撃機と、生き抜く事に懸命な兵士たちを目撃し、「小を捨て大を取る」選択を迫られます。
しかしここでの大小は、自らの命たる自己犠牲どうこう……、等ではなく。
「パイロットという優秀な人材および飛行機という高級兵器と、数多くの一般兵たち」
という、何れが大小かという天秤がそこに存在したはずです。
しかも、作戦中断すれば前者は高確率で保存できるが
作戦続行した場合、前者は高確率で失われ、おまけに後者も救われるかは分からない。
そういう選択肢に襲われて、陸の英雄たちの行動が彼の狂気を揺さぶるわけです。
そうして選んだ選択により、陸の英雄達(主人公等兵士だけでなく、陸軍大佐も)は空の英雄に救われます。
結果的に彼の選択は見事に多くの「大を取り」、戦争の英雄となるお話です。
人材的な価値については、実は同監督の「インターステラー」でも現れます。
最終的に人を裏切ってまで、任務遂行を図る優秀な科学者兼冒険家が登場しますが
彼の裏切り行為は、決して個人的な生存欲求という本音だけではなく
“数十年に一度しか現れないような優秀な人材”を、容易く放棄するのが“人類の為”になるのか――
という、大きな建前が存在した筈です。
何となし観流せば、下らない悪役科学者ですが、その側面を馳せれば彼の葛藤は大いに理解出来るものなのです。
現実にもそういう話は存在し、例えばコンピュータの進歩が劇的に進んだのは、ノイマンという天才が居たからこそ。
彼を失って60年以上経過していますが、同レベルの人材は未だに現れていない筈であり、その価値は言うまでもありません。
“人材は人類にとって同価値ではない”、それは優秀な人材こそ自覚する問題であり、だからこその葛藤が重たいのです。

次いで陸についての再考です。
陸での英雄性は、狂気と一括りで語られます。
敗走からの長期に渡る足止め、絶望的観測、絶え間ない銃撃による死のリスク……
それらで着々と悪化していく集団心理。
そういう狂気が蔓延していく環境で、いかに“正気”を保つかという戦いが繰り広げられます。

冒頭の桟橋までの流れは、主人公が「意地でも自力で脱出しなければ」と切羽詰る為の仕掛けです。
司令官らの会話を盗み聞くのがまさに。
冒頭の流れを終える頃には、三人の“正気”を保った兵士らが行動を共にします。
「帰りたい」一心で正気を保つ主人公。
「罪悪感とお人よし」で正気を保つギブソン。
「帰る事が許された身分」で正気を保つ高地連隊二等兵。
それぞれ別の理由で正気があり、その正気も直面する事態で絶えず揺さぶられ続けていきます。

主人公の正気は、何度も口にする「生還したい」という願いそれだけで成立しています。
だから、それを妨げる状況下になれば、あっさりと狂気を滲ませる節があります。
隊員を守る仕草もなしに、脇目も振らず逃げる冒頭。
脱出船に乗る為なら、戦場の規則をも無視し
船が沈没しかければ、人を押し退け我先に飛び出していく。
しかし、戦場における最も一般的な状態なのだろうと思います、明日は我が身。
一方で、他人を直接的に攻撃はしない、これが彼の正気なのです。

ギブソンも主人公に似偏った、“戦場の正気”を保ち続けた一人です。
ただ、主人公と決定的に違うのが
狂気を滲ませ生き延びなければならない場面でも、正気が先に出てしまう人柄です。
ある意味もっともヒロイック。
故に彼は貧乏くじで、尚且つ主人公を生かす要因として存在しています。

最後の一人、二等兵は違う傾向で正気を保っています。
真っ当な身分があり、生還する事を極めて優遇された保険があるからこその正気です。
だからこそ、その状況が揺らいだ時に、あっさり狂気に染まるのです。
自らの生死の可能性がわからなくなった時、身分を盾に
共に行動した恩人らを攻撃するという狂気に至ります。

そして主人公も実は、終盤に二等兵から「次はお前だ」と脅かされた時
彼の正気を保つ要因である「生還」が大いに揺らぎ、狂気が目に宿ります。
しかしそのタイミングで状況が一変して、その流れは有耶無耶になってしまい
一方の二等兵も正気が戻り、攻撃した恩人らを救おうと必死になるのです。

つまり、商船に乗り込むまでに三者の立ち振る舞いから“正気”の在り処やそれぞれの関係性を示した上で
商船が危機的状況に陥った時に、それぞれの“正気”と“狂気”との凄まじい交錯が陸の場面の肝だと感じています。
正気を保ち続ける、それだけで戦場では立派に英雄なのだと痛感する瞬間です。
だからこそ、主人公と二等兵とが生還した時、船内でお互い見合わせて
二等兵はばつが悪そうに顔を伏せ、主人公はそれを許すような素振りをみせるのです。
それぞれ、狂気に負けた負い目と、狂気で満ちる戦場の実態を理解しての振る舞いの筈。
また、端から狂気に染まっている人物として、同じく商船に乗り込んだ高地連隊のボスがいます。
自らの生存の為なら敵も味方もなし、というまさに狂気。
ここには、ノーラン監督のエンタメ性が少し出ていて、終始狂気に染まっていたボスは、最終的に容赦ない死を遂げます。
……彼とギブソンの死は恐らく、作品・エンタメとして白黒ハッキリさせたかった部分なんだろうと思います。
お人よし過ぎても、狂気過ぎてもダメ。

最後に海について、海は戦場を徐々に実感していく舞台になっています。
元より「戦争を知る」船長、父。
父や兄の伝聞で「戦争を知ったつもり」の青年、息子。
「戦争を知らない」少年。
「戦争を体感した」兵士。
……お察しだろうと思いますが、最重要は恐らく息子なんだろうと思います。

少年は、戦争に対する知識が不足しているからこそ
目の当りにした想像を絶する兵士らの視線、様相に、意識を激変させていきます。
シェルショック状態の兵士を救った時、少年は「腰抜けなのか」と問います。
この段階では、戦争の高を括っているのですが
シェルショックという状態を知り、すれ違う軍艦の常軌を逸する様相を目撃する事で、ガラッと意識が切り替わります。
……恐らく……、あの印象的なカメラワークがその証左だと考えています。

兵士は、完全なる狂気に曝されて正気を失っています。
劇中、どうにか正気を取り戻そうとする場面が何度も現れます。
船長とまともに交渉しようとしたり、救助活動に手を貸したり
自らが狂気に負けて少年を傷付けた事に怯えたり、それを最後まで気にかけたりと。
しかし彼に正気が戻る事はありません。
劇中の最後で、死んだ少年の姿を彼は目撃しますが、何も言わずに逃げるように去っていきます。
「もう、元には戻れんかもしれんな」と言った、船長の言葉が生々しく刺さる人物です。

そして息子。
彼は最も、“視聴者”に近い存在です。
息子が兵士を幽閉した時、「やっちまった」と感じると同時、多くの人がその行為を理解もした筈です。
しかし狂気の中にあってあの選択は、どう足掻いても悪手です。
戦争の凄惨さも、容赦なさも、場合によってはシェルショックだって、彼は元より理解しているのです……、伝聞として。
そんな先入観の甘さが、船内で直面する一つ一つの狂気によって、少しずつ浮き彫りにされていくのです。


それぞれの要素はざっくり、恐らく上記のような構成で成り立っています。
それらを踏まえた上で、最初の四つの疑問に立ち返ります。

一つは、船の青年の心変わり
一つは、船の少年の死の扱い
一つは、帰国後の老人の行為
一つは、最後の主人公の面持ち

色々再考した上で、最初から考えてもみれば畢竟単純な話
青年たる息子は狂気を肌で触れて、狂気に曝され正気を失った人間を、正気の沙汰で攻撃する理不尽さを理解するのです。
船長たる父は無論、それを最初から理解しており、息子が先入観を乗り越えた事実を静かに受け入れるのです。

少年の死は、戦争における英雄の一つの形として描かれています。
利用される英雄でもあり、戦争知識の乏しい一般市民が、戦争に対して急激な理解を深め
その死さえも受け入れてしまう、他のどの舞台でも現れない英雄として描かれているように見えます。

最後の主人公の面持ち……、映画におけるファーストカットとラストカットの重要性は言うまでもなく。
ですから、ラストカットにえも言われぬ表情の主人公を持ってきた事には意味がある筈です。
それは恐らく、戦場にいた主人公が「生還したい」一心で正気を保っていた事実と
自国にいたチャーチルの様になる演説が真逆を行くものだからだと思います。
国民や兵士らを鼓舞する「我々は決して屈しない、戦い続ける」という誓いの演説は
辛うじて正気を保ち、やっとの思いで“生還”した主人公からすれば、とんでもない話なんでしょう。
一方で隣にいた二等兵は、その演説を受け入れて次なる戦地にも赴くのかもしれません。
ここが、正気の拠り所の違いを妙に浮き立たせていたように感じました。

そして、帰国後に主人公の顔を触れる老人の行為。
……これは、正直いまだによく分かりません。
盲なのかと狐疑もしましたが、劇中にその描写もなし、よく分からないのです。
一つ、劇中に描かれた事実の中から強引に紐付けていくとしたら。
息子を空軍で失っている父たる船長にヒントがあるように思います。
自軍の戦闘機の墜落を、顔を伏せて視認できない姿――
「我々老人が始めて、子供達を戦場に送った」という台詞――
……それらから察するに、戦争を直視できなくなった老人の呵責が
「生き延びただけで十分だ」という、本作の希望的な主題とも言える台詞に繋がるのかと勘繰るところです。

……こう考察してしまうと、やはりチャーチルの演説をどう受け入れるべきか難しいところですね。
……なんだろうあの老人。
ただ、僕は映画を観た時、あの演説を格好良いと思うよりも先に「残酷だ」という印象を受けました。
結果的にイギリスは勝てた戦争だと知っていれば、あの鼓舞も興味深く受け入れられるのですが
主人公と同じ立場に立てば、ボロボロに負けて逃げてきた相手と、死ぬまで戦えと言われているようで
あまり好意的な印象を受けませんでした……、この感覚がノーラン監督の狙いか、僕の的外れか分かりませんが……。



兎角。
こうして散々に再考察をはじめると、決して娯楽性を欠いたような映像美一辺倒の作品では無い事が垣間見えます。
観返していく内に、その圧倒的な映像による説得力が戦争における狂気を描くのに必須である事も痛感し
ひたすら「あぁなるほど……、あぁなるほど……!」と唸りながら、考えていました。

でも世間の映画評をみると、やはり映像美への称賛ばかりに見受けました。
もしかすると、ノーラン監督は視聴者のそういう“観方”も察した上で
船での息子の言動に、わざと引っ掛かりを用意したのかもしれません。

……なんて思うのは、自分都合に少し捻じ曲げすぎでしょうか。
 不可逆変遷の道すがら 2018.02.19 思いの外、ご無沙汰になりました。
でも、新年一発目の一山越えたので、ようやく少しずつ更新していけそうです。
取り急ぎ、お仕事関連の更新を二つしました、いずれもお手伝いメインです。

……以前に“いわゆる監督業”のみを要求されて、こちらの現場主義を伝えたら
「どうせゆくゆくは現場を退いて、後ろで指示するだけになるんだから」と嫌味に言われた事があります。
なんだか最近、そんな仕事ぶりばかりになっているように見えますが……
ゴリゴリの現場案件と並行した故の請け負い方なので、相も何も変わらず、現場作業が一番楽しいです。
……僕は何になっても結局、描いた絵を動かせる喜び、ただそれだけが動機なのです。
また遠くない内に、そんな欲求の塊のようなアニメーションをお見せ出来れば、と思います。
その際は是非に、ご覧くだされば幸いです。

近況は程々に。


年明け、日記のページを整理し直していた序で、少し昔の日記を読み返していました。
すると薄暈けていた心境に出くわしました。

二、三年前のこと。
自身に纏わる一切の、明確な帰趨を暴いてしまった様な感覚に襲われて
「もう何もない」「喜びも悲しみも、及び付く内側で終ってしまう」と嘆きに嘆いていました。
その感覚は恐らく事実で、成長の終わってしまった一介の“大人”に訪れる悲壮感なのでしょう。
――閑話。
容易に想像もつきますが、もう一回、同じ感覚を齢四十頃に味わうのだろうと思います。
その時は、人生の半分が終わり、出来うる可能性を見切ってしまう為に。
――休題。

しかしそういった退廃的な心境は、気付けば消え失せていました。
ふと「なにが切っ掛けだったのだろう」と思い至れば畢竟簡潔で、目標の発生でした。
丁度その頃に、僕は「新しい事をやりたい」と喚き出しているのです。
というか、出来うる可能性のある新しい事に、気づいたのです。

それからというもの。
未だ完成にも至れずいるのにそれでも、僕自身は大いに救われ続けています。
その実態を思い知れば、人生は何と単純か、単純で困難かを痛感します。
そうして得られた救いから、気付けば“憧れ”も少しずつ変貌していきました。
かつて憧れた多くは幻で、いっそ偶像崇拝的な、或いは象徴主義的な側面ばかりでしたが
目標を改めて得てからは、同一線上にいるであろう、似て非なる先駆者たちの、在り方そのものに憧れています。

しかし憧れの変化に反して、目指すものには一切の変化もありません。
ずっと同じ動機で、夢見た理想を追い掛け回すその初心に、何の変化もないのです。
……なんて、誇らしげに書いてみましたが、その情けない実際は何となく理解しています。

心身共に、凄まじい早さで老化を始めて、合切が丁寧に鈍化しているのです。
判り易い肉体の衰えに鳴りを潜めて、精神も休まず衰えていくのです。
そうしてか細く惨めに移ろうその心が、かつて見初めた理想を、盲信して依存しているに過ぎない。
しかし、今更にどうしようもないのです。
少なくとも、残すあと数十年のどの瞬間よりも繊細な心を持っていたあの頃に、とらまえた理想の筈なのですから。

幸い、その理想に至る為の道筋を、老化の唯一の武器であろう経験によって探せています。
後はどうせ腐っていくだけの人生です。
憧れ如く、初心な老骨へと成り代わってでも、巧みな処世術で理想へにじり寄り続けていたい。
今はそんな風に、思い変わりました。

有為転変なこの心。
数年後は、一体なにを思い耽ているであろうか……、楽しみ反面、大いに不安です。
 萌芽 2018.01.03 新年、明けましておめでとう御座います。
昨年もゆたりとした調子でしたが、相も変わらず、沢山の方に支えられての一年でした。
改めて御礼申し上げます、ありがとう御座います。
授かった心遣いを糧に、例え僅かばかりでもお返しできるよう尽力して参りますゆえ
今年も一年、何卒よろしくお願い申し上げます。

……お堅いのも程々に。

さてさて。
新年一発目なので、昨年の総括と新年の抱負と、あれこれ連ねたいと思います。

先ずに、昨年について。
抱負「突破る」を掲げての一年でしたが、結論からいうと「半分ぐらい突破った」感覚です。
新しい事をやると喚き出して、気付けば三年目に突入しましたが、昨年の内にようやくその形が見えてきました。
けれど結局、それが世に適うのか、誰かの救いになるのか、あるいは僕に止めを刺すのかは未だに分かりません。
でも、ちょっと面白いんじゃないかな、と期待もしています。
内容は兎角、この形自体が、ちょっとだけもの珍しいんじゃないかな、誰かが喜んでくれたら良いな、と思っています。
形も見えて、土台も仕上がった今年こそ、流石に世に出せるものと意気込んでいます。
……貯金的にも、そろそろ出せないと辛い……
――閑話休題。
仕上がった暁には、僕なりに大々的に告知しますので
もし興味ありましたら、是非にご覧くださいませ。
数年かかりっぱなしの、狂気染みた代物になりつつありますゆえ、是非に。

それからもう一つ、添え物のように書いた継続目標「文字に触れたい」ですが……
世に出ていない部分で、鬼のような文章量を書いていました。
メールとか諸々で、恐らくハードカバーの小説を超えるほどの文を……阿呆のように。
一方で、読んだ本数や、日記の数は減ってしまったような気がしてなりません。
……今年こそ、日記増やしたい。
何だか思考が止まって腐っていくようで堪らない。
昨年の裏方文章祭りのお陰もあって
これぐらいの日記の文章量であれば大した時間も要しなくなったので、今年こそ……!

昨年はざっくり、こんな調子でした。
次いで、今年の抱負やら。

2009年「絵を描く!」
2010年「続ける事」
2011年「邁進」
2012年「迅速と忍耐」
2013年「不屈自立」
2014年「大変を楽しむ」
2015年「貫徹」
2016年「突破口へ」
2017年「突破る」

ひねもす茫と考えて浮んだ妙ちくりんな造語
「生涵養」(せいかんよう)
を2018年の抱負にしました、「生育+涵養」の造語です。
生み出したものを、ゆたりと時間をかけて、無理なく丁寧に、浸透させるように育てる――
といった意味合いでつけました。

それは、ずっと取り組んでいる「新しい事」は勿論。
今年新たに生み出す一切に、或いは自身の中でこれまで自発的に育ってきた合切に対して
改まってちゃんと向き合い、最適な練磨をしていければと強く渇望しての言葉です。

まだ見え切りませんが今年は、2014年の個人的な激変を上回る大激変の一年になりそうなのです。
昨年のんびりし過ぎたツケでしょうか……。
兎が如く、小動物よろしく結構ビクビクしているのですが
一年後また此処で、朗らかに能天気に文字を連ねていられればと切に願っています。
その為にも、生涵養を掲げて今年も一年、必死に過ごして生きていこうと思います。


長くなりましたが、2018年最初の日記でした。
こんな辺塞にまで足を運んでくれる奇特な方々に、一つでも多くの幸が訪れますよう
今年一年のご健康とご多幸とを祈念して、新年の挨拶に代えさせて頂きます。
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