DIARY02
徨日
明け透けな毒入り独白備忘録
2016年
 現・彷徨日記進行中  彷徨日記20152015.01.05-10.16  瞠目と賞玩の記憶 2016.10.28 少しぶりです。
相も変わらず、いくつかのアニメーションをチマチマと製作しています。
先日、気付けば四つも公開になりましたのでサイトを更新しました。
一つは、大人の事情を覗き見しながら、何となしに終ってしまった個人的には薄靄の被り残る作品。
一つは、友人らに頼まれて半日ほどでパタパタと、自分の嗜好を素直に出しながら作った作品。
一つは、10日ほどのバタバタ製作して、公開に至るまで紆余曲折あって、結果的に自主的に公開する事にした作品。
一つは、縁あって助太刀致すで参戦している作品。
内訳はそんなものです。
三つ目のものは1分足らずのアニメーションです、興味ありましたら是非に。
ギンガール

ご覧頂けるとバレバレかと思いますが、映画「インターステラー」の影響をド直球に反映した作品です。
…というよりも、ブラックホールを描こうとした際に、現状得られる最も正確な描写だという事で、そのまま参考にしました。
しかし明け透けに申しますと、僕はその映画に文字通り度肝を抜かれてしまい
かれこれ一年以上、惑溺とも言えるほどに心酔しています。
こうして何かの作品にのめりこむのも久しぶりで
同時に、まだ余りある生涯でもこれほどの衝撃はもう幾度も無いだろうと痛感しています。
次はいつか分からぬ映像に対する瞠目の記憶を、何となしに訪れたこの機会に、滔々と書き留めたいと思います。


元々、宇宙ネタというものを取分け好きな訳でもなく、至極単純な浪漫としての憧憬こそありましたが
スターウォーズやその他SFものの映画、HaloやMetroidなどの世界観
或いはBUMPに謳われる孤独な宇宙空間を、程よく好む程度の嗜好でした。
多分それは今も差して変わりません。
ですから、インターステラーに打ち抜かれたのはそういうジャンルの持つ蠱惑に依る所ではなくて
映像作品としての完成度は無論ですが、直球ど真ん中に、想像力でぶちのめされた作品でした。

そういう「想像力で打ち抜かれた作品」が、僕には3本あります。

一番はじまりの自覚的衝撃は、世紀のカリスマムービーとして登場した「マトリックス」でした。
攻殻機動隊やAKIRAに多大な影響を受けた、という割に
あまりに高度に独自発展させていた圧倒的な世界観と、強烈な主張を綯い交ぜにしたその作品に
当時12歳ぐらいだった僕は、とてつもない衝撃を受けました。
台詞を全て諳んずる位に、ドはまりしていました。
映像作品に憧れはじめた切欠でもあります。
…余談ですが、個人的な推察の域ですが本作、恐らくキリストに対する反駁なんですよね。
キリスト教圏でも大ヒットで迎えられながら、キリスト教にNOを突きつけた作品だと思うと本当に恐ろしい話です。
ウォシャウスキー兄弟がウォシャウスキー姉妹になった事も、僕の中では裏付けのように感じていたりします。
…話戻しまして。
今観てもその警抜さは何一つ衰えていませんし、僕の中では少々神格化しているような映画です。
これに直撃しなければ、今頃は多分もっと違う事していたんだろうと思います。

次にぶつかってしまったのはその数年後。
日本人ならほぼほぼの人が観たであろう「千と千尋の神隠し」です。
言わずもがな、殆ど世界観で押し切ったような作品です。
これは当時14歳ぐらいだったと思いますが、その頃までの僕の身の回りなんて
ほぼ西洋ファンタジーで固められていましたから、それは今思うと良き時期での良き衝撃でした。
今見返すと、諸々畳み掛けに苦労していたりそういう綻びの見え隠れする箇所も散見できる気がしてしまう映画ですが
それでも、個人的にこの映画以上に導入が凄まじかった映画は未だ出逢えていません。
冒頭僅か数分のごく自然な会話で、千尋のキャラクター像を誰しもが完璧に掴んでしまう。
そして気付けばあっという間、視聴者自身までもあちらの世界へと入り込んでしまっている…
こんな面白い導入、ずる過ぎて本当に羨ましいやら悔しいやら、嗟嘆も止みません。

それからというもの、僕の稚拙の想像力も何やかんやで歳相応の経験を累積し
誰かの想像力で打ち抜かれるような体験も無くなって久しくなりました。
勿論、ただ単に奇を衒った事を主軸に添えてしまったような作品に関心させられる事はあっても
それが主体の作品は一時的な衝撃こそあれど、それで終いになる事ばかりです。
だもんですから、もう上記のような作品には出逢えないのかもしれないと何となしに感じ始めていた頃に
冒頭の「インターステラー」にぶつかってしまいました。

創造性や卓越した世界観…などの観点でいくと、先の2作品とは毛色も異なります。
しかし徹底した写実的な描写の積み重ねと、そこに織り交ぜた絶妙な説得力を誇るファンタジーの匙加減が
本作の、恐ろしいほどに冷淡で軽はずみのない茫乎とした
雄大な自然を前に覚えるような神々しさを誇る魅力的な世界を生み出しているように感じられました。
「この先に何があるのだろう」、そんな初心な好奇心や探究心、恐怖心を暴かれて
気付けばその世界観に、昔懐かしい強い憧憬を抱いていました。
実に、10年ぶりの感覚だったように思います。
そして近しい世界に属した今だからこそ
研ぎ澄まされた音と映像の高次元な組み合わせは
「映像作家なら音を消して観ろ」なんて詰らぬ発想を一掃するかの如く
音楽に映像を合わせたわけでも、映像に音楽をつけただけでもない
映像と音響ならではの作品として稀有な完成度を誇っていました。
それはひたすらに感激で、ただただ、偶然的に見えたこの作品に喜悦を覚えるばかりでした。


そんな、個人的にはどれも到底欠き難い作品なのですが
実はというもの、この3本とも、僕は映画館で観た事がありません。
マトリックスは母の知人が持ってきたレンタルビデオで
千と千尋は父の買ってきたビデオテープで
インターステラーは新婚旅行の際の飛行機内にあった機内映像で
それぞれ「話題になっていたから題名は聞いた事がある」程度の前情報で、視聴しました。
えぇ、映像作品に浸るにはどれも酷く残念な環境でした、心底悔いています。
でもいずれも、環境など物ともせずに僕の度肝を完膚なきまでに打ち抜いていきました。
そんな、僕にとっての化物たちです。


…こうしてみると、びっくりするぐらいに有名どころを引っ張ってきたような印象を受けますね。
あんまり映画を沢山観るほうではないのですが、僕の中で特殊になった作品は取分け有名どころでした。
勿論、単純に感動した作品や驚きを覚えた作品、胸を穿つような作品も沢山あったように思います。
小さい頃はゴジラやスピルバーグ監督、シュワちゃん好きで、彼が主演の映画なら何でも観てましたし
ターミネーターは勿論、ラストアクションヒーローやジュニア、イレイザーやプレデターとかも筋肉見たさに観てましたし
スピルバーグ作品はE.T.、ジュラシックパークはじまりで追いかけて
プライベート・ライアン云々ブリッジオブスパイまで定期的に観てきました。
ウォシャウスキー姉妹作品も何だかんだほぼ観ていますし
ノーラン監督のもちらほら観てますし、クリント・イーストウッド監督のも掻い摘みですが観てきました。
LEONやショーシャンク、グリーンマイル、切腹、フォレスト・ガンプ、ニューシネマなどの所謂な作品も深く覚えていますし
ブレードランナーやパルプフィクションとか、何かと目にするものや、アニメ映画作品ならそれこそ相応に
前衛的なものではなくて、大衆娯楽としての映像作品を人並みに観てきたつもりです。

でも、数多の作品との接触は一期一会で、流転し濃霧へと消えゆく常、途端に名を思い出せるものも僅少な中
先に触れた3本は僕にとって一際特殊で、燦然といつまでも僕の前に立ちはだかるのです。
厭倦も露知らず、それが何ともいえず誇らしく、「こんなにも楽しいぞ畜生!」なんて気持ちにもなります。
同時、もう映画や映像という枠組みに対して、絶望すら覚えるのです…。
其処に沸き立つ可能性は当に満ち足りてしまったように感じて
後は盲目的に再生産の積み重ね、僕の曇った眼はそう訴えるのです。


恐らく、まだ余りある長き時間。
希望と絶望は綯い交ぜで、その遥か先、薄らと閉じていく光が果たして何時まで本物なのか
判然とせぬまま暗闇を突き進んでいく時に、燦然と輝くそれらがよき標となり続ければ…
或いはいずれ、新たな光と見えればと願いつつ、真暗闇を生きていかねば、と思います。
 頭の中の交錯 2016.09.13 少しご無沙汰になりました。
こちとら相も変わらずに、もそもそと生きています。
最近日記サボりがちですが、そう遠くない内に
細々と色々お見せ出来れば良いなぁと考えていますゆえ、その時はまた、何卒ご縁もあれば。

それはそうと、少しばかり奇妙な小話を。
これを記すほんの数時間前に、僕自身に起きた事です。
僕としてはあまりない体験でしたから、つらつらと書き残そうと思います。


今朝方、変な時間に、何の前触れもなく目が途端に冴えました。
起きた、という感覚を飛ばして、脳の唐突な覚醒で急に目が冴えた、といった印象でした。
それもその筈、寝付いた頃合もよく分からず、寝ていた実感も特になく
冴えた目で時計を確かめると、記憶より数時間はとうに過ぎているのを認めて
ようやく寝むりについていた事を確認するような、連続性の途切れぬ薄ら呆けた時間を過ごしていたからです。
斯様な寝惚けた感覚は、仮眠をとるようになってから頻繁に覚えていたものですから
何のこと無し、そうか変な時間に起きてしまったのか、と寝直そうと再び布団に潜りました。

しかし、ここで珍妙な感覚に襲われました。
(あれ、あの作業は終ったっけ…)と、明確な視的情報を含んで脳裏を巡ったのは、仕事の事。
けれどそれは嘘でした、そんな作業は全くした事もなければ見た覚えもありません。
覚醒していた脳のお陰、すぐさまその呆けを捉えて
(別の作業と他の記憶を混同してしまっているのかな…)とあしらって、自身を眠りへと促しました。
瞼の裏にくっきり浮かんだその作業風景は、恐らく自覚のなかった睡眠時の夢の中でみたもので
変な時間に目を覚ました為に脳の処理が混濁しているのかもしれない…と、頭だけは妙にはっきりしていました。
その感覚も束の間、休む間もなく次に思考を支配したのは
(それよりも、あの話はどうなった?)と、今度はごく私的な、日常的な一場面でした。
けれどもそれも、どうにも覚えがないように感じてならないのです。
想定、想像、或いは妄想の類を、またしても実際と融和してしまっているのかとも思えたのですが
今度は驚くほどに、確信を得られませんでした。
(あれ、こっちは事実だったかな…)

すると、なにか堰を切ったようにあらゆる記憶の類が脳に雪崩れ込んできました。
実際の事、昔の事、昔見た夢、昔覚えた空想、先日までの想像・妄想
恙無い日々の作業、作り発信してきた空想の世界、誰かの小噺、何処かで観た映像、いつか聞いた話し声…
一切合切が、「自身に起きた現実の事」という認識で、脳に記憶に大挙してきたのです。
その渾然たるや、とても理解の及ぶものではなく、思考の記憶を薙ぐ暴風と轟音となって、頭の歪むような感覚に襲われました。
(あぁ、ついに僕の頭は呆けてしまったのか)と、覚醒していたと思っていた頭は今度は途端に他人事で
(もう一度目が醒めても駄目だったら、きっともう駄目だろうなぁ…)なんて呆けた事を思いながら
猛然と荒れ狂う記憶の嵐の前に、頭の中はどんどん白く薄くぼやけてしまい、終いには何も見えなくなりました。
すると、思慮はなく、自我もなく、ただ呆然と、芥ほどの曇もない真白な空間に飲み込まれていく…
それを怖いとも、嬉しいとも、悲しいとも思わずに、流れに身を任すが如く
逆らう事もなく、急ぐ事もなく、すぅーっと消滅していくような感覚のみ残して、しかし漸次それも途絶えました。


それからまた数時間後、重たい頭をどうにか起こして目を醒ましました。
今度は普段調子で、脳の覚醒にすっかり手古摺りました。
どうにか身体も起こして、記憶を整理したところですぐにもpurikokoさんに声をかけました。
「あの話って、どうだったっけ…」
ポカンとされて、「そんな話した事ないよ」と返されてようやく、あの渾然としたほとんどは紛い物だった事を認識しました。
「はぁ~」と大きい溜息を一つついて、改めて頭を整理して
どうにも単に寝惚けていたようだと、しばらく後には落ち着きました。


寝惚ける事は時折あっても、斯様に、まるで頭が記憶が壊れていくような寝惚け方は初めての事で
ハッキリ目覚めてから改めて、少しゾッとしました。
…月並み、夢でよかった…いや、夢ではなかったけれども…。
 糸口との邂逅 2016.07.08 「人は、生き物は、なぜ子孫を作るのだろうか。」
原初的な問いに対し、簡素な答えもつく。
「逆説的な発想で、同一構造体の複製を繰り返すたんぱく質の集合体を、生き物と呼ぶのだ。」

先日、そんな文意のやりとりを見かけました。
そりゃそうだな、と何とも当たり前にして等閑にしていた事の再考を促された気がしました。

長年、答えもずっと分からずに、思考を繰り返していた事があります。
それは簡単なもので、"人類"の到達目標、或いは行動原理、或いは意義や意味…そういった捉え難いものです。
恐らく、求めるような個人的な人間的な解答などない事は重々承知していましたがそれでも
何か納得のいく答え、納得のいく理由をずっと求めて、再三再四、思考をしていました。
それこそ何年も、その問いを繰り返し繰り返し。
友人や知人とも、こんな珍妙な話題でも話せる相手と思えば、この話をぶつけてみては散々に論を交し合って
「不思議だなぁ、分からんなぁ」なんて他愛もない暇潰しとしても繰り返していました。

そんな折、ふとしたところから糸口に出会いました。


今年の抱負で「本も少しは読みたい!」と書き放ちましたが、辛うじて続いていたりします。
小説などにはまだあまり手も出ず、こんな性分ゆえか、哲学書なんて格好つけて買って読んでいました。
といっても知識も無し、有名どころに手を出す他なく、ソクラテスは大学の頃に気まぐれで読んでいたので
「誰か哲学者…にーちぇ?」という事で
ニーチェの「善悪の彼岸」を読んでいました(余談ですが、この題名は本当に痺れます…かっけぇ)。
…そして、悪戦苦闘の末、どうにか読み終えました。

少し脱線しますが…このニーチェという人物、個人的には控えめにいってもとても敬意を払える人物ではなく
というのも「私は哲学者として選ばれた人間であり、他の数多の愚民どもに道を示す義務がある」というのが基本思考のようで
とことん他者を貶して自己を高めんとし、いかに自分が優秀で特別で聖域にある存在か、そればかり書いているのです。
ソクラテスにも似た節ありましたがまだ、己もまた愚民であるという視点も強かっただけに読み易かったですし
和辻哲郎さん(読み途中)なんて極めて謙虚で、とても尊敬できる在り方を示しているのですが…
兎角、本書の8割ぐらいそれだったように思います…別の意味で「…すげぇ」と感心しきりでした。

話戻しまして。
本書の肝は題名にあるとおり、当時
「善悪の概念が転覆の最中にあり、道徳的価値が覆りつつある」というのが焦点かと思います。
それは、貴族的道徳と隷属的道徳の二つの道徳の転換で
僕なりに咀嚼して現代風に記すならばそれは、内向依存的な道徳と外向依存的な道徳でした。
前者は、善し悪しの判断基準は自己に在り、そこに道徳性を導き出しているのに対し
後者は、善し悪しの判断基準が他者に在り、外野からに声に応じて道徳性を決めていくものです。
…という興味深い話の肝もあった訳ですが、僕の中で一際燦々として目に飛び込んできたのは
「生きるとは、乱暴に言えば搾取する事、自己同一化する事である」
という、本書の中でも短い話でした。


淡々と考えてもみれば、生きる事とは常に、何かを捕食する事、即ち他者を自己同一化して自己増幅する事に尽きています。
「捕食」と書き記しましたが、文字通りの捕食ではなく、事象を捉え咀嚼し、知的・物理的・精神的に、自身に取り込む事です。
そしてそれを「自分の一部」としてしまう。
一番原初的で明確な事は、文字通り物理的に食べる事。
或いは、異性を捉え、子孫を得て、知的にも物理的にも精神的にも自我を植え付け、新たな「自分」の複製を増やす試み。
或いは、他者を捉え、知的に物理的に精神的に支配して、自己同一化を図る事。
一人、二人、三人とそれを繰り返して集団となった「自分」を以て、別の集団をも捉え支配して、自己同一化を図る。
そうして幾度も他集団を捕食し巨大化を繰り返し、単一の自我で同一化を図られた膨大な集団は、国という体裁を得る。
そこまで巨大化して尚、それは個が他者を自分の一部として取り込み自己増幅を繰り返した結果であり、「生きている」んです。
だからこそ、国という巨大な「自分」を更に増幅せんと、他の巨大な集団や国となった他者を食って掛かろうとするのです。
生きているからこそ。

しかし、全ては「生きている」のです。
誰しも、「自分」をこそ増やしたいのですから
簡単に他者に取り込まれたりはしませんし、寧ろ取り込んで自己同一化してやる気満々なんです。
ですから、生きるものは様々な方法で以てして他者を取り込もうと試みます。
一番容易いのは力による捕食です。
しかしそれは、見目に分かり易い物理的な同一化に過ぎません。
恐怖により、一時的に精神をも支配しうるかもしれませんが、何れにしろ「生きるもの」
例え一度は他者に同一化されようとも、自己増幅の為に消えていた精神的な「自分」を再び持ち出し得ます。
するとどうでしょう。
とある自我により同一化を得た筈の巨大な「生きる」集団の中に別の人格が現れ
その人格が集団の内部で自己増幅を図り始めたら。
例えるならば、個人の身体の内部に、全く自己で制御できない細胞や部位があり、それが他の部位を侵食していたら。
それは癌であったり、病原体であったりするわけです、捕食したのに同一化をし損ねた、自分にとっての危険因子です。
さすれば、治療をしたり、切除したりして、あらゆる手段を講じて自身を守らんと努める筈です。
集団として「生きている」場合も同様です。
内部に危険因子が現れれば、当然ながら「生きる」集団も病気や怪我を負いかねません。
集団の瓦解は「生きもの」としての弱体化を意味し、別の集団に捕食される危険性も高まります。
仮にその怪我が軽度であっても確実に痛みを伴いますし、最悪の場合は捕食されずとも瓦解による自死です。
ともなれば、集団に忠実に同一化された集団を構成する個人は
同一化から外れて別人格を発現した集団の内部にいる存在を恐れ嫌い、追い出そうとします。
悪意でもなんでもなく、「生きる」集団の一部として生きている個人だからこそ
生きる為にも、危険因子の排除を試みているのです。
一方で集団の内部で自我を発現した個人もまた、「生きている」からこそ、自己増幅を図るのです。
本来はお互いに、捕食し合う関係だからこそ。

だから、巨大化した生ける集団である国は
知的にも精神的にも物理的にも、同一化を図り続けているのです。
具体的には、言語であり、文化や宗教であり、郷土です。
そうして強固な同一化に成功して、病気になり難い、危険因子の出難い集団となり、安定した「生きもの」になる訳です。
そうした巨大な生きものの争いは戦争と呼ばれ、壮大な捕食たる侵略も繰り返してきた訳ですが
前述の通り力による捕食は、別人格を発現し自己増幅を図る危険因子を内部に取り込む可能性も高く
実際に侵略による捕食の現状は、大半が失敗や不安定化に繋がっており
その捕食方法もだいぶ前に終わったのでしょう。

しかし集団は変わらず生きています。
常に、どうにかして他者の自己同一化を図らんと企てているわけです。
そこで賢い巨大な国も現れ、物理的に捕食できないならば、知的に、精神的に捕食しようと試みた筈です。
言語と文化・宗教の侵略です。
それは実に効果的に機能していて、今現在も凄まじい勢いで同一化が進行しています。
巨大な一つの生きものになりつつある過程です、もはや誰の人格の同一化もわからぬ、謎の巨大な生きものに。
でもそれは、恐らく誰にとっても不味い筈です。
この地表に「自分」しかいなくなれば捕食するものがなくなりますから、そうなれば生きていないも同義です。
ですから仮に、国という集団も捕食し合って、超巨大な同一化が進めば、すぐにも内部分裂を起こし
細分化し、捕食合戦も再開するような気がします、生きているのなら。

だもんですから今は、良い具合に巨大な「生きもの」が犇めき合って
喰い散らかさない程度の捕食合戦を繰り返しながら、「生きる」努力に努めているのでしょう。
しかし、そうはいっても生きもの、常に捕食し捕食される危険の中に在る訳です。
そんな中で実現している、弱き生きものである途上国や、強過ぎる生きものである先進国の共存には
危険因子の取り込みの懸念だけでなく恐らく、冒頭の道徳が作用してくるのです。

個人として生きる人間は、とても珍妙な生きもので
本能的には生きものであり、生きる努力を絶やさない一方で
理性を得て知的になればなるほど、何故か「生きる」努力を拒み始めるのです。
それを発現しているのは、個人に強く芽生える道徳心だと思うのです。
「自分は自分、他者は他者」、互いを別の生きものとして認め尊重し合い、捕食しない。
これは実に、外向依存的な道徳心で、つまりはニーチェの時代からか確かに転換も起きて
完全に善悪の価値観が入れ替わってしまい久しく、積極的に生きない「生きもの」が誕生しているのです。
すると、知的に高まるほどに、即ち先進国として栄えるほどに、生きものとしては衰退していく様が確かになります。
一方で途上国では、そんな悠長な事も言っていられないので激しい捕食が日々繰り返されている筈です。
ですから当然、途上国では集団内部での微々たる自己増幅も積もり積もって、集団が大きく成長していきます。
だのに先進国は内部での自己増幅も停滞し始め、新たな自己同一化を求めて、物理的な捕食はもう無理ですから
知的や精神的な捕食を試みて、巨大化し始めている途上国に対し、大量の植え付け行動に走ります。
そうなれば結果的に、途上国が集団として知的にも精神的にも物理的にも、生きものとして先進国に勝る展開が訪れる筈です。
そうして、かつての巨大な生きものは緩やかに衰退し、新たな巨大な生きものが誕生する。
そういう脈々とした巨大な生きものの変遷が、歴史なんでしょう。
そしてとある巨大な生きものらは、衰退しない為に
知的に高まり過ぎない制御をしたり、受動的な自己増幅も意図して試みているのでしょう。

…そう思うと、本当になんと面白い事でしょうか。
よく、「街や組織や国も生きている」なんて例え的な話も聞きますが
多分に本当は例え話でもなんでもなくて、実質的に「生きる」行為を行っているという話なんだろうとようやく思い至りました。
"人類"の行動原理をもの凄く簡素に、「生きる」という身近な行為で捉えられるんじゃないかなんて
奇妙で稚拙な妄想と想像が脳を支配して、何とも変な感覚が身体の内を走りました。
長年の謎が、随分簡単な言葉に置き換わったような…
あの、複雑な数式を組み立てて解いていったら、答えが1や2に集約された時のような…
…うん、とにかく楽しい。


ところで、ここにきて自身の捕食について再考してみれば
畢竟単純で、国の試みた文化侵略、即ち精神的な捕食を創作物で試みているに過ぎないように感じます。
要は、「こういう世界って良いよね」「こういう色って良いよね」「こういうキャラって良いよね」…云々。
そういう自分の中にある緩い自我を他人に押し付け、同一化を図ろうとしている、という事です。

僕は布教活動も結構に好きで、色々と人に自身の好みをお薦めしたりしてきたのですが
何だかんだ、捕食行動に他ならないように思います。
つまりは、僕は既に誰かに捕食され同一化されており
その集団の手先として、更に集団を巨大化せんと布教して捕食を試みていた訳です。
ですから忠実な集団の中の個として、集団の統一的な自我を攻撃から守ろうとしたり
時には牙むいて集団の中で自我を発現して、捕食活動を試みようとしていたりするのです。

そうこう考えてもみれば、僕は極めて「生きている」のであって、随分に野生的な話です。
だいぶ前に、「必死に生きたい」なんて嘆いていましたが、思っていたよりも、ちゃんと生きているようです。

しかし、やはり徐々にその意欲も減衰しているのは間違いないのです。
捕食を、同一化を試みる行動は、日めくり確実に抑えこまれています、前述の道徳心によって。

…なんて書き連ねると「道徳ってなんだ」とか
いよいよ哲学的な領域に陥ってしまいそうで、もはや僕の脳ミソではとても太刀打ちも出来そうにありません。
でも、斯様な疑念の思考は僕にとってはとても有意義に思えて、それは
自身を取り巻く環境や自分の感情、行動原理を、少しでも、自己解釈でも構わないから把握する事。
さすれば見えぬ力に翻弄されて振り回されている内に、人生が終ってしまう、なんて可能性も少し減って
ほんの少し、本当に少しだけでも、自分の望む方向に歩んでいけるんじゃないか、なんて真面目に信じているんです。

そんな風に心底思い込んでいるからこそ、副産物的に
馬鹿みたいで意味もあるのか分からない自身の疑念に、無味乾燥とも思える自己満足的な解答を得るという
全く阿呆らしい一人芝居でも、多少のケリがつけば、思いの外幸せだったりするんです。

久方ぶりに、何だかすごくスッキリしました。
…とても書き疲れたけど。
 往き着く先で。 2016.06.30 先日公開したメトロイド、多くの人にご視聴を頂いているようで本当にありがたく思います。
個人的な所感として、取分けファンアートや誰かに向けて作るものは
完成した時点でその当人らのものであって、僕のものではないという感覚で在りたいと常々思っています。
ですから、こうして作品から僕の名前やらは空気になって
作品やそれに紐付く事柄で話が盛り上がっているのを観るととても幸せに思います。
…猜疑心の塊ですから、作者ありきで盛り上がると作品の善し悪しを見極められなくなりそうな事も大きな理由なのですが…。
…いや、作者ありきで盛り上がるような大それた存在じゃあない事は百も承知です…仮定の話。

戻しましてメトロイド。
本ゲームシリーズは、ここしばらくは名を確かにした頃の作品の雰囲気から少し離れようとしているように感じられ
また多くのファンもそれを鋭く感じ取り、不安や失望感を顕にしている人も多々見受けます。
個人的にはそれに同調する心証もありまして、今回のアニメ制作の僅かな一因になっているのは間違いありません。
ただ、本家の雰囲気の舵取りを否定するつもりもなく、「それはそれで良いのかなぁ」とも思っています。
何も、常に迎合的である必要はなくて
その時々で滔々と流転しながら新天地へと進んでいるのならば或いは希望に感じられますから。
しかしシリーズもの、世界観を有するものは難しくって
流転し過ぎては根っこを失いますし、何より作品を支えてきたファンは
それこそ作者ではなく作品の根っこを愛でて支えているのだからこそ。

ですから、全くの新天地へ赴きたいならば作品の冠を外して新たにしていければ良いのになぁと思いますが
下りてくる予算や企画の可否、売上やリスク、雇用・組織の保護を思えば、容易くない事も容易に想像できて
何だか楽しくないなぁと感じてしまいます。
その名を冠するからこそ得られる原資であり、その原資であるからこそ成せる大業もあり
芥ほどの個人の意志や、力を持つ集団の意志、絶対的な時勢や社会の意思に絡み取られながら生み出されていく過程を思えば
色んな事が意地悪に複雑で、簡単に口を開く気にもなりやしません。

だからこそファンならファンアートで、作品に対する気持ちを表して、変わらず愛でていられれば良いなと理想的に思います。
例え驚異的な変貌を遂げて全くの別物に成り変わっていったとしても
心酔した作品やその瞬間は今も変わらずに在るはずですから。
過去を上塗りしながら変貌していく、生ける人とは違うのですから。

…戻りましてメトロイド。
作り終えてからというもの、気持ちの昂りもあって
「このままやっちまうか!」とスーパーとゼロミッションを購入、サクサクッとクリアしましたw
メトロイドは元々、探索や周回プレイ推奨もので単純なプレイ時間はそれほどに取らないので
2本合わせても10時間ぐらいのプレイ時間でした。
すごく、すごく楽しかったです。
元よりゼルダ好きで、道具や力を得て行動範囲を徐々に広げていくものが大好物なので
練り込まれた複雑なマップの中を彷徨いながら、自力で解き明かして先に進んでいく感覚は本当に変え難いです。
そういうジャンルはメトロイドやゼルダが定義したに等しいものだと思いますが
今や同ジャンルの作品も溢れかえっていますから、そこに加わるあの異質的な重苦しさこそ
本シリーズを独特にしているのだと思いますし、やはり良いなぁと改めて惚れ惚れとしました。
バーチャルコンソールでお安く遊べますし、今遊んでもほとんど不自由ないクオリティですから
もし興味ありましたら是非に、オススメです。


何故、シリーズものや特定の世界観を有し、愛されたものが少しずつブレていくのか。
そういう事を、考えていく程にとてもしんどくなります。
順当な進化や細やかなブラッシュアップ、そういうのを繰り返していく作品も間々あります。
生みの親の手元を離れて尚、誰かの手で着実に引き継がれながら生きていくモノ。
そういう積み重ねで一つ一つの要素を「完璧」に近づけていく…
誠に殊勝な姿勢だと感服しますしそういう存在を心底尊敬します。

でも大概の場合に、作っているのは愚かで孤独で情けない、むらっけで塗れた人間です。
些細な事で、見え隠れする自尊心や依存心は揺るがされ、信念はいとも容易く移ろい痛めつけられ
癒えぬ傷を隠そうと誰も触れられぬ殻を得て、惨めで脆く弱い自尊心を、大切に大切に守らんと籠城してしまう。
きっと誰しもそんなものだと思うんです。
強い人とか信念ぶれぬ人なんていなくて、得た殻を見事に隠し、忘れ去っただけの事なんだと、最近よく思います。

時間をかけて自分の殻の一つも探ってみると、薄ら見えてくるのは
本当に幼稚で、殻に覆い隠したその時から何も育っていない、沢山の含羞の記憶です。
こういう、逃げ出した記憶が、避けようとした体験の記憶が、無数の殻を作って心に沈み込んでいるように思います。
最初はそれを隠す為、守る為にあの手この手で言葉を変え、態度を変え、心を変えて遠ざけようとしていただろうに
気付けばその殻の事も忘れて、意味も分からずに、どこかから、何かから逃げようと必死になってしまっています。
僕の逃避は、きっとこれの塊なんです。
そして恐らく人というのは、そうして成り立っているんだと思います。

だから、そういう自分の中の腫物に似たものを、誰かの中にも勝手に見出してしまい
その人の隠した殻を、その内側を想像して、自滅的に酷く惨めな思いに包まれていたりするのです。
そんな調子だから、ブレていく作品を、それに纏わりついている言葉を、少し恐ろしく感じていたり
その心の往き着く先が平穏であればと切実に、とても切実に願っていたりしています。
 磨耗した感動 2016.06.06 珍しく、オリジナルではないアニメーションを自主的に制作してみました。
任天堂のハードSF作品「メトロイド」のショートアニメです、1分未満の動画ですが興味ありましたら是非に。
METROID short animation

制作について。
諸々あって仕事で少し待ち時間が発生していた為、隙間時間を使って何か作ろうと思い立ち
同時に1年半ぐらい前に、メトロイドのショート作品を作ろうとして断念してしまった事も思い出して
折角だから、「もう一度ゼロからメトロイドのアニメを作ってみよう」と考え制作しました。
制作期間は3週間ぐらいで、僕にしては中々なペースかなぁと思います。
取分け、線の多いキャラクターの作画をスムーズにこなせるかどうかを試していたので
感覚的には決して悪いものではありませんでした。
エフェクトやら間やらは相変わらずで、もう少しどうにかせねば…と思います。
音楽はいつも通りpurikokoさんに、メトロイドの素晴らしい曲を神々しくアレンジしてもらいました。
そして効果音、毎度手作り感満載で挑んでいたのですが
そろそろケチるのも止めて、ちゃんとしたものを買ってpurikokoさんに沢山調整してもらって豪華にしてみました。
その過程、効果音の深遠を覗き視掛けたのですが…これまた興味深い世界ですね。
もしタイミングと気と合えば、是非とももっと覗き込んでみたいものです。

メトロイドについて。
アニメーションなんか作ってみましたが、割と緩い付き合いなので
ディテールやら世界観やらは結構怪しいもんです。
メトロイドは、日本の作品としては珍しい
鬱屈とした緻密で濃い世界観をもつハードSF作品ですから、本当はもっとガチガチやらないとなんですが…
特に、辺境惑星の基地なんてイメージはメトロイドには全くなくて
どちらかというとHaloのイメージのほうが強いぐらいで。
大して学びもせずに作ったので、叩けばボロがわんさか出てきそうです。
シリーズ自体も、プライムとフュージョンをがっつり遊んだぐらいで、後は触り程度です。
名作と名高いスーパーも遊んでいないので…これはいつか遊びたいなぁと常々。
ただ、世界観やサムスの持つ魅力は形容し難く、個人的には大好きです。
こういう鬱々とした遥か未来のSFものって
大概に知的エイリアンやら人類やらで宇宙規模で戦争していました…というのが多いように思いますが
メトロイドはひたすらに、「辺境にヤバイ生命体いた駆逐しなきゃ!」という訳で
不気味なモンスターで溢れかえる、まともな人間は全く近寄れないような環境下を
危険生物根絶の為にサムス独りで淡々と深みに潜り続けていく…そういう作品だと思っています。
メトロイドのもつそんな独特の空気感は、数多のSF作品の世界観と一線を画するものが確かにあるように感じるのです。
勿論戦争や軍隊も存在しますが、主人公は賞金稼ぎですから直接的な絡みはあまりなくそれらはあくまで背景、というのもまた。
そしてそういう重苦しい空気感に包み込まれるような感覚は、ゲームだからこそ良いのです。
最近のシリーズはサムスの人格や性別も込みで、まるで映画のように売り出していたりしますが
それはオマケでよくって、女性らしさは球体フォルムそれだけ託して
猟奇的で冷酷なハンターのような佇まいを誇る主人公が、重苦しくジメジメした世界を孤独に黙々淡々と彷徨う…
個人的にはそういうのが、とてもツボなのです。
近々あるE3で、そういうメトロイドが復活しないかなぁ…と少し期待も込めて。


作画について。
宿敵が時折「作画って楽しかったんだ…?」というような事を、思い出したように呟いていたりします。
僕はその感覚を分かるようであまり理解はせずにいました。
しかしここしばらく、仕事での作画で満足出来ない事も多く、そういうのに圧迫された生活を続けている内に
作画に対して興味関心を酷く失っている事に気づきました。
作画をするのは時間的にもロスが大きいから、いかに作画せずに画面を作るか…
そんな事ばかりを必死に思案していればそれもその筈。
段々と楽しかった記憶は磨耗して、苦痛に塗れた時間へと摩り替わっていきました。
人は、何かが激変するとそれを敏感に感じ取りますが、緩く少しずつ摩り替わる変化は見落しがちです。
案の定、僕は自身の変化を見落して
理由も判然とせずままに苦痛へと変わりゆく作画やアニメ作りと
そうではなかった筈の記憶との齟齬で二重に苦悩を感じて
酷く混乱した嫌悪感に振り回されていました。
しかし僕は、愚かで妄信的に幼き感動に依ろうとしているもんですから
「作画は楽しいんだ!」と決め込んで、好き勝手に、自分の思うがままに趣味の作画につぎ込みました。
結論はやっぱり、「楽しかった」です。
作画は楽しいです。
とても厄介な中割だって、「あぁ面倒臭い」と繰り返し口にしながら、何だかんだで楽しいです。
時間や予算、決裁権を持たぬが故の主張や思考の制約は
それらだけでなく、取り巻くあらゆる環境、感情をも不愉快に摩り替えて
終いには信じた自身の根っこさえも毟り取りはじめてしまっていました。

分かっているのに、何でこんなにも繰り返し繰り返し忘れてしまうのでしょう。
そこに潜む切なさや虚しさにこれからも何度も翻弄されるのだろうかと思うと、それはとても難儀な事だなと感じています。
でも、幾度ブレようとも繰り返し同じ結論に辿り着けると、今は信じていたいです。
 違う視線と視る深度 2016.05.02 先日
「音ゲーは覚えゲーみたいに感じるから苦手だ」
という話をpurikokoさんにしてみたら
「全然そんな事ないよ」
と返されて、少しばかり論と思考とを深めていました。

覚えゲー、簡易に記せば「型を覚えて正確無比にこなし続ける技術を競う類の娯楽」です。
例えば、弾幕シューティングみたいな。
娯楽でなければ例えば、楽譜通りに楽器を完璧に演奏する事を求められている演奏コンテストなども。
数多の失敗と改善を延々と繰り返し、ある種の境地に至るまで忍耐を続ける決して楽ではない行為です。
そこに潜む達成感や上達の喜びは想像に容易く、だからこそその魅力は十二分に感じ得るところではあります。
一方で、前述の通り楽ではない行為ですから
気軽に受動的な刺激を求めて楽しもうとすると全く持って不向きな事でもあります。

僕は遊びに、多少の学習性と上達、多くの即興性と驚きとを求めてしまいがちで
だもんですから多分な鍛錬を要する遊びには及び腰になり易いのです。

しかし、冒頭の「音ゲーは覚えゲー」というのには嘘も多々ある事を認めています。
というのも、仕組みを理解し操作体系も身に染み込み手足のように操れる頃合にまで達すれば
多少の学習と多くの即興性で、音ゲーやその類の多くは楽しめる筈です。
ただ、そこに至るまでの道筋はやはり長く、そして容易くない為に気後れしてしまうのです。

そうこう論を重ねて暫らく後、覚えゲーと称してしまうのは視線の問題でもあるように思いました。
というのも、楽器の演奏が分かりやすいように思いますが
楽譜を見ながら演奏をする場合に
初心者は今弾いているその譜面と手元を、慣れた人は次に弾くべき譜面と手元は程々に見ながら弾くものです。
当然ながら前者は音を休め々弾くでしょうし、後者は多少の音の外しはあろうともササッと通して弾いてしまえるでしょう。
斯様に、視線さえ変われば暗記的な鍛錬から即興的な娯楽へと変える事だって出来るわけです。
つまりは譜面を丸暗記する前に、手元を見ずとも演奏出来るようになる事こそ優先的に修練し
視線を早い段階で譜面に集中できるように出来れば、初期の上達はより良くなる筈です。

斯様な、視線の問題は凡その事に当てはまる話で
例えば音ゲーであれば楽器演奏と同じく、弾くべき先々を見るものでしょうし
例えば即興性も強い格闘ゲームであれば、自キャラなど見る事は無くて対戦相手の動きだけに見入るでしょうし
例えば戦略性の強い盤上競技であれば、定石と死路とを熟知するでしょうし
例えば創造性の強い映像であれば、構図や構造、展開・演出にこそ目も奪われるものです。
…伝聞に沿った想像ばかりですが。
一方で初心者は何にしろ、もっと自身に近いところばかりに気が散ってしまい
後々の展開の為の先手を考慮したり沸き立つ感情の所以を明確に捉えるなんて事は、中々に持て余す事と思います。


この視線の依るところは熟練度に大きく比例し、取分け創造性の強い事柄に対し
その視線の差異によって結果的に、同じ行為をしながら全く別のものを視ている…
という事はよくよくある筈で、また容易に想像できる事です。
いわゆる、表面だけを視ているか、本質的な内面も視ているか、という話です。
恐らく誰しも一つ二つ、そういう視線のズレを感じた事はあるでしょう。
自分が初心者の側でズレている場合も、熟練者の側でズレている場合も。

しかしこの視線の齟齬というのは熟練度に比例するとしても多少は、認識に依って補完し得るものです。
例えば僕の場合、音楽と料理はそれに当たります。

僕はpurikokoさんにも可笑しいと言われるぐらいに音楽ばかり聴いていますが
それでも楽曲に対する視線の変化を感じたのは極最近で、しかも本当に微かなものでした。
途方も無い時間を音楽に浪費しながら一方で
本当にただただ聴いている、消費しているだけに過ぎない触り方をしていて、碌に習熟もできていませんでした。
料理だってそうです、散々色んなメニューに手を出し作ってみながら
ようやくほんの少し、本当に微かな視線の揺らぎを感じた程度です。

そんな視線の揺らぎを得るには
生産したり深く咀嚼したりする事を常日頃にしていれば、相応の時間でも足り得るかもしれませんが
ただ消費しているだけなら膨大な時間を浪費して尚、微かな揺らぎもあれば望ましい程度の事だったりします。
それは視線の偏りの問題で、消費に尽きている場合は極めて主観的に狭い箇所を視続けてしまうのに対し
意識して触れていれば多様な視線も求められ、結果的に視線は揺らぎやすいのです。
つまりは僕の場合、音楽は消費し、料理は少なからず生産していたからこそ
微かな揺らぎにしても、要した時間に差もあるわけです。

そんな微かな揺らぎでも「それこそ修練すべき視線」と理解できたのは
知識として熟練者の視線を知っていたからに過ぎません。
ある事柄に対する熟練者の「これこそ本質」というそれを、言葉では知っているからこそ
それらしきに触れた時に点と点とが線で繋がり、僅かな習熟でも視線を揺るがす事ができたのです。
そんな胡散臭い「本質の話」なんてものを信じられるのも
別の事柄にて、修練のお陰で視線が揺らぎ、触れ初めと全く異なる視線を持ち得た経験もあるからこそ。
ほんの少し視線をズラしただけで、途端に全く別物のような
底も想像出来ないほどの深遠と目を合わすような、ゾッとする体験も覚えているからこそ。

視線を幾つも跨ぐ事で、その事柄しか持ち得ぬ特異な奥行きというものに気付く筈。
それはその事柄を取り巻く浅薄で刺激だけの強い装飾的な要素と異なり
事柄を定義し長きに渡り多くを魅惑し続けるそれ足らしめる、本質です。
僕は何一つとして、深遠には潜り始められてすらいやしませんが、覗き視ただけでもそれは圧倒的で
微かな揺らぎで垣間視えたその深遠を、そこに魅入られ深く深く潜っていく熟練者達の視た本質を、疑う余地などないのです。

そして、深く深くに潜った熟練者達の伝える
事柄の持つ深遠から湧き立つ本質的な深甚たる魅力は何事にも変え難く、人を生かす力足り得るのです。
生きるに値するそれを、教えてくれるのです。


こんなにも有意的に考えるそれを、何故だか僕は忘れがちです。
ですから殊更に自身の未熟さと視線の先とを熟慮し、抱いた所感は果たして主観的な只の好みか否か常々思考を巡らせ
熟練者の視たそれを忽せにせぬよう気をつけねばと、心底思います。
深遠を覗き視るあの瞬間を、逃さない為にも。

…ところで、そんなに視線に拘る意義は、得はあるのかと問われると
深遠を視て沸き立つ好奇心、確かにする畏敬の念、それだけしか思い付きやしません。
でも、それさえあれば十分でしょう。
時にその深さに絶望も覚えますが、それさえあれば、もっと視ていたい、もっと生きていたいと思える程のものですから。
 技と創について想う事。 2016.04.08 予てより呻吟考えていた事があります、映像や絵を作る際に纏わりつく、技術について。
明け透けに申しますと、納得のいく個人的な結論を未だ持ち合わせていない躓きなのですが
止め処なく滅裂になっている思考の記憶を、少しでもまとめられればと期待して。


僕は絵を描く際、機材にとても寄りかかった制作方法をとっています。
ペイントツールを使い、液晶タブレットを使い、ボチボチの性能のPCを使い。
そういう環境の中での画作りや映像作りに浸っており、必然的に酷く依存してしまっています。
その環境から、ある種の悩みを生じました。

デジタル的な環境で絵を描くという行為には、二つの技術が存在すると感じています。
簡単に、デジタル性能とそれを使いこなす技術と、絵画技巧と知識を駆使する技術と、です。
便宜上、前者を技術、後者と技巧と記します。
この二つの感覚は圧倒的に違うものであり
所謂、絵描きとしての身の丈というのは本質的に技巧に因るものだと思いますが一方で
技術はその身の丈を誤魔化すのを何より得意としています。
デジタルの実態は現状、アナログの再現でしかあり続けていないからです。

その二つの感覚とその実とを自身の所論として捉えてから
如何にして技巧を磨きつつ、技術でそれを補い強化するかを散々考えてきました。
しかし各々の進化速度の差異には驚くたるや。
技術は瞬く間に多くの技巧を"再現"し尽くしてしまおうとする一方で
己の技巧は未だに一つの進化にさえ戸惑い続け、変化でお茶を濁してしまおうとする始末。
だもんですから、技巧の変化と技術で背伸びしたそれを身の丈と見誤り
ふと本質的な実力に気付いては凹垂れる、そういう繰り返しを続けてきました。

斯様に、技術に依った変遷の道半ばに僕はいるわけですが
それでも技術の進化には嫌悪感を覚える事も多々あります。
それは単純に、「技術は技巧の社会的価値を貶める」と痛感しているからです。
社会的価値、ここでは明瞭に、対価を生じる金銭的な価値の意として用います。

貶められた実例は有り余るほどにありますが例えば
ムラ無く単一色で塗りつぶす、見事なグラデーションを描き出す
或いは、見事な球体を、曲線を誇る立体物を作り出す…
なんて事も、かつては間違いなく社会的価値を持った技巧でした。
しかし技術はその技巧を容易にし、鍛錬を積んでまで得るには値しない技巧へと変えてしまったわけです。
その最たる例は、写真の登場による写実主義の淘汰だろうと思います。
何故に今になってその点に躓いているかといえば明快で
当時の絵画の状況に近しい事が、今日のアニメーションの世界で恐らく生じているからです。

その取り巻く状況に気付いてから、アニメーションの定義に急かされました。
かつての画家達が、何を求めて絵を描いているのか再認識を求められたように
今のアニメーター達は、何を求めてアニメーションを作っているか再度立ち返る必要に迫られている筈です。
何を表現したくて縋っているのか、ただただ酷に、その自問との戦いです。

僕は結局、絵が描きたくて、その絵が動いた感動を忘れられなくてアニメーションを作っています。
所謂「アニメ」に憧れた訳ではありません。
ただ単に、絵を描いていたいんです。
だから、そこにこそ社会的価値が生じればいい。
そうすれば、ずっと絵を描き続けていられますから。

しかし技術は淡々と、見境無く技巧を再現し続けて
遂には「絵を描く」行為自体も獲得しつつあります。
多分に、衆目にその差異は大したものに映らず、大概の社会的な価値は失うんだろうと思います。
そうなれば僕の社会的価値は失われていくのでしょうから、技術の進化に時折嫌悪感を覚えるわけです。

…と、ここまで思考してようやく、僕は一つ致命的な勘違いに気付きました。
有難くもお仕事をもらえる事を理由に
僕のアニメーションには社会的価値が少なからずあるのだと、確かに自惚れていました。
でもそれは大枠に過ぎず、その僅かに見出された社会的価値の大半は
ここまで散々記してきた技術・技巧、ほぼそれだけでした。
つまりは、様々な道具を使う技術と、僅かな技巧とを組み合わせた
「アニメーションを作る事が可能なモノ」として価値を見出されていたのだと思います。
「オレの考えた最高のアニメーションを、キミが作ってくれ!」という一点で、価値を見出されているのです。
そしてそれは自覚でもありました。

だからこそ、技術の進化が怖かった。


そうして再び、何がしたいかという動機に立ち返る破目になりました。
「絵を描きたい」
僕はそれに個人的価値、心身骨身を捧げるに値する程の魅力を感じていました。
しかし「何故か」、その問いの明瞭な答えを持ち合わせていませんでした。
結局、僕はこの動機に対する動機をくどくどしく自問していなかった訳です。
魅力を覚えた源泉の探求を半端に済ませていた事で、到達すべき至境を正確に捉えられていませんでした。
漠然と、しかし明確に覚えていた「所謂アニメを作りたい訳ではない」感覚も
個人的価値の沸き立つところではないからに他なりませんでした。

そうして愈々、感覚の記憶を掘り下げて遡り、見えてきたのは畢竟、「逃避」でした。
嫌な事から、面倒な事から逃げる為に片隅に描いた落書きと、そこで覚えた非現実的な逃避行。
僕はそこに、何度も繰り返し逃げ込もうとしているだけなんでしょう。
「絵を描くと嫌な事から解放された」、だから「絵を描きたい」ように思います。

何故解放感を覚えたか、どうしたら解放感を得られるのか。
それを問質して得られた所感こそ、僕の個人的価値のはず。
それは技術でも技巧でもない、恐らく社会的価値の図れていないもの。
もしそれが、個人的価値に近しい社会的価値を持つならば
僕の因るべき所はそこなんだろうと思います、技術や技巧等ではなく。

さすれば試さぬ術はない。
…と思いますが、それも付け焼刃のこんな技術に託してくれた眼前の仕事を達した後の事。
一通りちゃんと完了した後に、試行錯誤できればと心底願います。
それが突破口となればと祈りつつ、…その前に〆切を突破してしまいそう…。
しっかりせねば。


いつもに増して読み難いなぁ…
思考も滅裂なら、どれだけ推敲してみても上手くいかぬ…
…そんな事しているから〆切アカン。
 言葉と思考 2016.03.17 言葉について少し。
時折、僕は賢しらになって覚え立ての言葉をせっせと使います。
あまり格好良い事だとは思いませんが(その実、努力の主張に他ならないので)
折角見知った言葉を直ぐにも忘れていくぐらいならば…と、割と考えも無しに変な言葉も使います。

酷く安直に、語彙の貧弱さを嘆いていたり
難しい言葉を使う事に単純で幼稚な喜びを感じたりしている節もありますが、意識的に求めている所は少し別です。
というのは、思考という人足らしめる能力が極めて言語へ依存している事に起因しています。

思考し物事を組み立てていく場合は大概に、自身に最も馴染んだ言語を基にしている筈です。
すると基本的な思考力の幅(能力差異ではなく)は短絡的に、その言語能力に比例すると捉えて大きく間違いはなさそうです。
自身の内側に生じた捉え難い感情や感覚、外部で発生した形容し難い状況を
最も素早く捉えて自らの思考へと落とし込む術というのは、恐らくそれに対する言葉を知っている事だと思うのです。
勿論、万象を言葉で容易く捉えられる等と驕るのは大いに危険だとは思いますが
未知の感覚に対し、近しい感覚やその言葉を知っていればそれだけで
その感覚の邂逅に辿り着く為の思考の開始点になり得る筈です。
斯様に言葉で思考を積み上げる過程を思えば、言葉が変われば思考の記憶も全く相容れなくなるもの。
つまり言葉を変えれば思考も変わり、思考が変われば価値観も変化する。
得体の知れないそれは、言葉という道具で少しだけ括り付けられているはずです。
だからこそ、無駄なほどに蓄えていて損はないものだと信じています。
知らなければ知らないだけその思考の記憶は工程を増やし、要する時間も増えるというもの。
そういう積み重ねが、与えられた時間の中で思考により辿り着けるある種の個の答えというものに違いを生むのだと思います。
その違いの価値を問われると、途端述べる事は畢竟自己満足以外に何もないのですが。
ただ、愚かでいる事はもう嫌だと、自身の愚かしさを覚える度に何となく思います。
賢くありたいのではなく、愚かでありたくないだけ。
…僕の根幹は、徹底して逃避にあるのかなぁなんて改めて思うところです。

あと一つだけ、変な言葉を覚える事に躍起になるちょっとした理由として、口封じなんて事も少しあります。
昨今の20~40代辺り?の社会人が揃いも揃って「コミットメント」等なんて言い出して
変なの…なんて思っていましたが、色々理由はあれど詰る所は口封じなんですよね。
大人って厄介で、知らない事・分からない事を恥じて尋ねようとしない節が多々あります。
まして年下や格下相手に教えを請うなんて…と、どうやら思うようです。
そこを突いて、相手の知らない言葉、例えばカタカナ言葉を乱用して、分からないままに封じ込めようとするんです。
事実、割と効果的だと思います。
同時、双方に結構に格好悪いなとも個人的には思います。
そんな折、某大臣が辞任する際の質問責めにあっていた場面で、実に巧みに質問を挫いていました。
記者「政治家としてどうなんだ!」
大臣「私は矜持を持ってやって参りました」
記者「…今どんな思いだ!」
大臣「全く忸怩たる思いです」
記者「…」
みたいな。
いやはや変な話、その場面は見ていて実に爽快でした。
そして妙に、なるほどと感服しました。
語彙や知識の豊富さを、こういう形で口封じに用いる事もできるのかと今更のように。
だから何れ何か機会あれば、こんな風にサラッと返せる老獪な処世術も身につけば…なんて企てつつ。
 絵の事、価値観の崩壊 2016.03.01 あう…2月中の更新間に合わなかった…クヤシ。

先日立て続けに、迷走ぶりを隠さぬ絵を駄々流ししていました。
この混迷は偏に、自信や確信のブレだと素直に思っています。
畢竟、その絵が動いて魅力的であれば僕にとっては正解なのです。
動かせない、動いていて魅力的に見えない絵であれば、それは「絵」で良いように思えます。
その似て非なる魅力の正道の塩梅は実に曖昧で、最早どこに道があるのやら…という感覚です。
舗装された大通りだけしか通る価値も無いというならば、僕はもうこの表現に興味もなくなりそうで…。
そんな散り散りになっている止め処ない思考を、少しでも整理しつつ、心地良く刺激的な魅力を求めつつ。


迷走を極めていると、価値観という得体の知れない何かが現れるように感じます。
この価値観とやら、気付けば僕の中では境のないボヤけた何かでしかなくなっていました。

以前、極めて排他的な思考に傾倒し
「あれも要らないこれも要らない、必要最低限に絞り込んで生活を密にすべきだ」
…と、何かに囚われた様に考え込んでいた時期がありました。
人の往来に制限をかけてしまえ、地産地消になっちまえ、鎖国しちまえ、なんて具合に。
ところが考えてもみれば情けなし、排他的になればなるほど外部の情報が削げ落ちていき
益々無知と偏向に拍車もかかり、想像力さえも狭めていたのが当時の僕の実態でした。
排他的思考は、膨大な知識と経験則あってこそはじめてその思想に価値も生じるであろうに
ありもしない知識で背伸びをして、恥を晒していたのが僕の正体でした。

遅ればせながらそれに気付いて恥じて悔い、省みて先ずは短絡的な否定を止めました。
とりあえず受け入れて、考えて、それから是非を考慮しようと。

それが混迷の始まりでした。

万象の要素に対して、完膚なきまでに否定出来る事、というのは畢竟存在し得ないのです。
例えそれが親殺しのような、赤子を殺すような最低の行為であったとしても
張り巡らせた思考は簡単に全てを否定はしてくれません。
勿論、ほぼほぼ全てにおいてその行為は否定し得るのです。
ただ、何か、引っかかり否定し切れぬ要素が大抵の場合に在り得るのです。

すると途端にどうでしょう。
肯定し得る・理解し得る僅かな一面を、大多数の理解し難い側面を理由に否定してしまえば
あらゆる否定が簡単に得られてしまうのです。
万象のあらゆる要素が、全てを否定できないように、全てを肯定し得る事も等しくありえないからです。

すると、一つの事象に対する価値・是非というものは事実問題の是非ではなく
極めて社会的なもの、或いは個人的なものへと委ねられていきます。
そうして、ある事象に対して、個人的な良し悪しと、社会的な良し悪しとが現れるわけです。

しかしこの二つの価値観は、必ずしも完璧に合致しているものではありません。
ですから、より柔軟な個人的な価値観を、社会的な価値観へ寄り添わせるのです。
自欺による多少の歯痒さは在れど、それが最も賢く下手に苦しまずに生きていく術の筈ですから。
大なり小なりそれの繰り返しで、膨大で強硬な、社会的な価値観が生まれるわけです。


こうして、"現在の"一般的な価値観というものは生じているように感じています。
それは探れば簡単に認識できるもので、盲目的にその価値観に従う事も前述の通り賢ければ出来得ます。
しかしそれは勿論、個人の価値観でもなければ、普遍の価値観ですらない事も多々在り得るものです。
だからその強硬な社会的価値観さえも、どうにか捻じ曲げようと奮闘する殊勝な人だって間々現れるのです。

そうして一歩ずつ退いて価値観を覗いていくと、個人的な価値観は個人の中でしか価値足りえず
それが果たして真に普遍的な価値なのか判別する事も、個人的所感の濾過の後では極めて困難で
価値というものは真の価値が在るのかどうか、正直分かりやしなくなってしまっています。

価値を定める事は何かを選ぶ事に他ならず、選択とは極めて攻撃的な行為になり得
その攻撃性を認めながらも何かを価値として見出すその行為自体に、それほどの価値があるのかどうか。
或いは、何も見出さない事がどれほど攻撃的か。

しかしそこにまた、攻撃性を否定的に捉える自らの価値観が明らかに現れていて…
もう掌握し切れぬおぞましいほどの思考に取り付かれてしまった訳です。


何かを「良い」と認める感覚を貶める事は、思いの外に自らを痛めつけ
簡単で複雑な苦悩へと引きずり込んでくれました。
その苦悩に振り回されて彷徨し始めてもう数年経ちますが、現状は相変わらずです。
僕の縮こまった脳みそではここら辺でもう役立たずで
畢竟、自らの最も直観的な感覚を信じてみる他頼りないのです。
しばらくの苦悩で得られたのは信じ難い事にその程度で
精々、その価値選択による攻撃性を最大限に潜める事、それだけは多くの場合に助けになり得そうだという事だけです。
それが果たして良いのやら、本当に分かるのは何れの事…
というのが、また意地悪な話だなぁと項垂れつつ、一つでいいから胸張って歩ける道が欲しいと切に願うばかりです。
 Once more unto the breach, 2016.02.02 新年、明けましておめでとう御座います。
…と言うには、遅すぎでしょうか…。
兎角、年末年始を跨いでしまった長い戦いを終えて、ようやく年も明けたような気がしています。

サイト更新を済ませているので、もうご視聴済みの方もいるかもしれませんが
去年10月…仕込から数えると去年の6月から動いていた拙作がようやく日の目を見ました。
台詞ありの12分半のオリジナル短編アニメーションです。
多大なる試行錯誤と悪戦苦闘のうえで、どうにかこうにか形に仕上げた拙作です。
もし興味ありましたら是非ご覧頂ければ幸いです。

ヒストリカル

今回、身の丈に合わないほどの豪華面子が集いまして、映像とその他のクオリティに壁を感じたりもしますが…
それがお陰で、映像以外は非常に締まった作品になっています。
そういう方々の力量に触れた事、作品を引っ張り上げてもらった事は非常に有意義で誇らしい体験でした。
この先、こういうクオリティと対等に、肩を並べて共に前線を押し上げるような映像を作れるようになれれば…
と切に感じていた数ヶ月でした。
凹垂れてばかりの情けない人間ですが、この感覚が錆びて腐り落ちていく前に
鼻息荒く肩を怒らせて、我武者羅に貪欲に前に突き進めたらと思います。



さて、年の瀬も年明けもだんまりだったもので
「この兎、以前に偉そうに「抱負って良いもんだ」なんて言っておきながら、もう止めやがった」
…なんて思ってもらえるほど、僕の事を覚えてくれている人もいないと思いますが、兎角大丈夫です。
僕は僕の言った事は覚えているつもりです、半分ぐらいなら。

そんな訳で、遅れに遅れた恒例です。

2009年「絵を描く!」
2010年「続ける事」
2011年「邁進」
2012年「迅速と忍耐」
2013年「不屈自立」
2014年「大変を楽しむ」
2015年「貫徹」

先ず昨年の抱負「貫徹」について。
…はっきり言い切って、完全敗北もいいところでした。
2013年の「不屈自立」を思い出す、全く似たような展開です。
去年は春先から秋~冬?まで、ひたすらに躁鬱と喧嘩しているような毎日でした。

目的がない、目標がない、理想がない、生き甲斐がない。
落ち往く終息点をこの弱輩ぶりがまるで見切ったように、意欲もなければ気力も失っていました。
その終息点に魅力を感じるわけでも無し、その生き様に纏わり付くであろう苦痛に耐え忍ぶ根気も無し
そこに至るまでに得られる喜びは、もうとうに満ち足りたそれと変わらない。
ただ食べる為に耐え忍び、辛うじて得られた自由に感じる喜びも年追い減衰するばかり。
それでも不条理に襲い来る痛みや悲しみは減る事もなく、まるで増えてさえいるようで
一体全体、あと数十年は続きかねないこの命をどうやって消費したらいいのか
皆目検討もつかないような時間を過ごしていました。

一体何を「貫徹」したら良いのか。
何を守り抜いたら、自分に誇りがもてるのか。
それすらも見失って、昨年は這い蹲る様に土の味で飢えを凌いで生きていました。
正しくあれです、忸怩たる思いでした。

だのに吐いた大言壮語は幾度となく襲い来るのです。
「まったく見事な貫徹ぶりだ」と、皮肉たっぷりに反芻し続けてしまうのです。
それがまた悔しくて、情けなくて、ただひたすらに凹垂れて永らえただけの一年でした。

でも、それでも、ただただしがみついてはいました。
逃げるように続けているアニメーションからは、逃げずにしがみ続けました。
それだけは貫いたつもりです。
だからそれを今年も繋いでいられます。
そうして無理にでも繋いだ先から、光が差しました。

目標がみえたり、目的が生まれたり、理想や希望を感じ取れたりしているのです。
心の平穏を薙ぐように荒れ狂った嵐は過ぎ去り、新しい終息点を見出しています。
当たり前ながら、簡単な事ではありませんし、その道中は全くの獣道です。
でも、だからこそ楽しそうに思えます。

今年は早々に波乱がチラチラ顔を出していて
仕事的な意味で激動の一年に…しなければいけないような気がしています。
だから今年の抱負は、あの異様なまでに格好良い詩から一部頂いて
2016年は「突破口へ」でいこうと思います。

実のところ、ちゃんと調べたわけでもなく読んだ訳ではないのでその前後の文脈を全く把握していないのですが…
僕がかつて敬愛していた組織が「自ら起こした革命を今一度やってやろう」という意気込みを
「もう一度突破口へ(Once more unto the breach)」と現していたのが最高に格好良くて
もう何年も前の話ですが、ちっとも忘れずにいました。
本当のところはそこからの引用です。

ところで自分を振り返ってもみれば、これぞ突破口だったといえるような体験は正直ありませんでした。
微々たる突破は幾度となく敢行してきたつもりでいますが、人生における突破なんて覚えにありません。
だったらそれを2016年にしてやろう、なんて贅沢な事を考えたわけです、去年の11月ぐらいに。
そして、何年後かあるいは何十年後かの抱負で
「もう一度突破口へ」と言えるような一年にできれば良いなと夢想しています。

…はは、こんな大言壮語を吐いて大丈夫でしょうか。
また後頭部を何度も殴られるような反芻に襲われなければ良いのですが。
警戒しつつ、矜持をもって大胆に突き進めたらなと今は思います。
…なんだか去年も、こんな始まりだった気が…気のせいかな。

それとは別に細々した事で
今年は日記をちゃんと書く、出来れば月に2,3回は!(早速1月ダメだったけど…)
あと本を読む!Kindleを今更に活用し始めたので、今年こそは暇潰しが読書になるように…!
兎角、文字に沢山触れられるよう頑張りたいところです。


そんな訳で、長々なりましたが2016年一発目でした。
毎度ながらではありますが、こんな辺鄙なところまで御目を通しくれる殊勝な方々の
今年一年のご健康とご多幸をお祈り申し上げて、新年の挨拶に代えさせて頂きます。