少し前に、地獄の「ダンケルク」を見てきた、という話を書きました。
その際の感想として
「映像・音響としての完成度は抜群、戦場の臨場感も凄まじい、ただ娯楽性は少し乏しい」
といった内容を書きました。
それからというもの、映画館で見てから数ヶ月としない内にダンケルクの映像を購入し
何度となく作業傍らに再生していて、ふと――随分と浅薄な視聴の仕方をしていたのでは――と再考に迫られました。
というわけで、ちょっとした映画の掘り下げです。
「ネタバレがっつり、主観がっつり、根拠は碌に無し」な内容については事前にご了承くださいませ。
あと、何気なく映画を見る場合の感想としては上記の感覚が結局全てゆえ
あくまで個人的な、フリーキーな感想としてお目通しくだされば何よりです。
前置き長くなりましたが、それでは再考です。
映画「ダンケルク」の全体的な構造として
陸・海・空という異なる三舞台が存在し、それぞれ異なる時間軸、異なる戦場での戦いを描いています。
それらは時に交わり、時に因果になりながら、ダンケルクという戦場での物語を展開していきます。
舞台や時間軸、展開など、簡潔に見えて実に複雑な構造をしている事もあって
本作は意外にも汲み取り難い映画になっているのではないだろうかと思います。
また恐らく、パッと観た初見時に明らかに引っ掛かる点が四箇所ほどある筈です。
一つは、船の青年の心変わり
一つは、船の少年の死の扱い
一つは、帰国後の老人の行為
一つは、最後の主人公の面持ち
それらも一つずつ丁寧に再考してみます。
先ずに、そんな本作の主題を探ってみると恐らく、“戦場の狂気”と“戦争の英雄”ではないだろうかと至りました。
“戦争の英雄”については、観てのままの題材です。
“戦場の狂気”については、海での冒頭の救出者とのやり取り
「シェルショックだ、正気じゃない。……、もう、元には戻れんかも知れんな」
という箇所からも明らかに汲み取れる、大きな要素ではないかと思います。
これらの題材が、三舞台で三様に繰り広げられていきます。
先ず、陸について。
ここでの主たる(判り易い)英雄は、主人公の青年(トミー)ではなく、桟橋の先端で指揮取る司令官(陸軍大佐)です。
「小を捨て大を取る」そんな選択の連続を迫られる中で
正気を保ちながら大多数を救い出していく有能な司令官として描かれます。
陸には副たる(判り難い)英雄もおり、それは主人公等、生へともがき続ける兵士たちです。
彼等は何を為す訳でもなし、ただ生き残ろうと狂気の中を駆け巡ります。
陸での狂気は、誰もが感じるであろう開幕から蔓延している開放的な閉塞感です。
いつ死んでも可笑しくない状況下で、徐々に心の余裕を失っていき、少しずつ狂気が膨らんでいきます。
次いで海について。
ここは三舞台の中でも少し特殊で、英雄は船に乗り込んで、道中で絶命してしまう少年(ジョージ)です。
いわゆる英雄的な行いをしたという英雄ではなく、英雄として祭り上げられ
戦争の士気を高める為に、“利用される英雄”(新聞記事になる)でもあります。
そして海では、狂気を徐々に体感する場所として描かれています。
これが地味に、映画で一番重要で、一番理解し辛い箇所なのではないか……と、思います。
そして空について。
ここでは明らかな“戦争の英雄”を、優秀なパイロット(ファリア)中心にとことん描き続けます。
しかしその英雄的な判断は、正気の沙汰ではなく正に狂気であり
その狂気は他の英雄らによって感化されたものでもあります。
余談ですが恐らく、ノーラン監督の映像的な欲求がこの上なく発揮されてる舞台でもあります。
そんなに数多く見てきた訳でもないですが、ダンケルクの空中戦の浮遊感は類を見ないほど圧倒的でした。
以上が、主題からふわっと俯瞰した三舞台の様相で
それを前提に掘り下げていくと、表層面に反してそれぞれが矢鱈に複雑な仕組みであるように感じられます。
上記の俯瞰した様相から、それぞれの場面をより掘り下げて観直していきます。
恐らく、映画的には意味合いが一番薄く、映像特化の舞台である空から再考していきます。
空は、非常に記号的に描かれています。
飛行機自体も三機しか出していないのに、マスクやゴーグルで人物の視認性が悪い為に
開幕からリーダーを落として二機に絞ります(リーダーに関しては一瞬も映らない声のみの出演)。
これにより、現場の指揮権限が英雄であるファリアへと移り、彼の判断が際立っていきます。
その後に彼は結局独断で、自己犠牲の果てに自軍の救出を選択する訳ですが
その流れは地味ながらに大きな感情のブレがあります。
冒頭、ファリアは「カレーのほうが近い」と、ダンケルクではなく別の戦場の救出案を投げかけます。
しかし実際には、カレーにいる少数の自軍を囮にして敵軍を足止めし
その間にダンケルクにいる大多数の自軍を救う作戦なのです。
ファリアは「小を捨て大を取る」選択に理解を示しながらも、遺憾そうな様子で任務に入ります。
敵軍機を幾つも落としながらも、燃料が限界に近いタイミングで
ダンケルクに迫る爆撃機と、生き抜く事に懸命な兵士たちを目撃し、「小を捨て大を取る」選択を迫られます。
しかしここでの大小は、自らの命たる自己犠牲どうこう……、等ではなく。
「パイロットという優秀な人材および飛行機という高級兵器と、数多くの一般兵たち」
という、何れが大小かという天秤がそこに存在したはずです。
しかも、作戦中断すれば前者は高確率で保存できるが
作戦続行した場合、前者は高確率で失われ、おまけに後者も救われるかは分からない。
そういう選択肢に襲われて、陸の英雄たちの行動が彼の狂気を揺さぶるわけです。
そうして選んだ選択により、陸の英雄達(主人公等兵士だけでなく、陸軍大佐も)は空の英雄に救われます。
結果的に彼の選択は見事に多くの「大を取り」、戦争の英雄となるお話です。
人材的な価値については、実は同監督の「インターステラー」でも現れます。
最終的に人を裏切ってまで、任務遂行を図る優秀な科学者兼冒険家が登場しますが
彼の裏切り行為は、決して個人的な生存欲求という本音だけではなく
“数十年に一度しか現れないような優秀な人材”を、容易く放棄するのが“人類の為”になるのか――
という、大きな建前が存在した筈です。
何となし観流せば、下らない悪役科学者ですが、その側面を馳せれば彼の葛藤は大いに理解出来るものなのです。
現実にもそういう話は存在し、例えばコンピュータの進歩が劇的に進んだのは、ノイマンという天才が居たからこそ。
彼を失って60年以上経過していますが、同レベルの人材は未だに現れていない筈であり、その価値は言うまでもありません。
“人材は人類にとって同価値ではない”、それは優秀な人材こそ自覚する問題であり、だからこその葛藤が重たいのです。
次いで陸についての再考です。
陸での英雄性は、狂気と一括りで語られます。
敗走からの長期に渡る足止め、絶望的観測、絶え間ない銃撃による死のリスク……
それらで着々と悪化していく集団心理。
そういう狂気が蔓延していく環境で、いかに“正気”を保つかという戦いが繰り広げられます。
冒頭の桟橋までの流れは、主人公が「意地でも自力で脱出しなければ」と切羽詰る為の仕掛けです。
司令官らの会話を盗み聞くのがまさに。
冒頭の流れを終える頃には、三人の“正気”を保った兵士らが行動を共にします。
「帰りたい」一心で正気を保つ主人公。
「罪悪感とお人よし」で正気を保つギブソン。
「帰る事が許された身分」で正気を保つ高地連隊二等兵。
それぞれ別の理由で正気があり、その正気も直面する事態で絶えず揺さぶられ続けていきます。
主人公の正気は、何度も口にする「生還したい」という願いそれだけで成立しています。
だから、それを妨げる状況下になれば、あっさりと狂気を滲ませる節があります。
隊員を守る仕草もなしに、脇目も振らず逃げる冒頭。
脱出船に乗る為なら、戦場の規則をも無視し
船が沈没しかければ、人を押し退け我先に飛び出していく。
しかし、戦場における最も一般的な状態なのだろうと思います、明日は我が身。
一方で、他人を直接的に攻撃はしない、これが彼の正気なのです。
ギブソンも主人公に似偏った、“戦場の正気”を保ち続けた一人です。
ただ、主人公と決定的に違うのが
狂気を滲ませ生き延びなければならない場面でも、正気が先に出てしまう人柄です。
ある意味もっともヒロイック。
故に彼は貧乏くじで、尚且つ主人公を生かす要因として存在しています。
最後の一人、二等兵は違う傾向で正気を保っています。
真っ当な身分があり、生還する事を極めて優遇された保険があるからこその正気です。
だからこそ、その状況が揺らいだ時に、あっさり狂気に染まるのです。
自らの生死の可能性がわからなくなった時、身分を盾に
共に行動した恩人らを攻撃するという狂気に至ります。
そして主人公も実は、終盤に二等兵から「次はお前だ」と脅かされた時
彼の正気を保つ要因である「生還」が大いに揺らぎ、狂気が目に宿ります。
しかしそのタイミングで状況が一変して、その流れは有耶無耶になってしまい
一方の二等兵も正気が戻り、攻撃した恩人らを救おうと必死になるのです。
つまり、商船に乗り込むまでに三者の立ち振る舞いから“正気”の在り処やそれぞれの関係性を示した上で
商船が危機的状況に陥った時に、それぞれの“正気”と“狂気”との凄まじい交錯が陸の場面の肝だと感じています。
正気を保ち続ける、それだけで戦場では立派に英雄なのだと痛感する瞬間です。
だからこそ、主人公と二等兵とが生還した時、船内でお互い見合わせて
二等兵はばつが悪そうに顔を伏せ、主人公はそれを許すような素振りをみせるのです。
それぞれ、狂気に負けた負い目と、狂気で満ちる戦場の実態を理解しての振る舞いの筈。
また、端から狂気に染まっている人物として、同じく商船に乗り込んだ高地連隊のボスがいます。
自らの生存の為なら敵も味方もなし、というまさに狂気。
ここには、ノーラン監督のエンタメ性が少し出ていて、終始狂気に染まっていたボスは、最終的に容赦ない死を遂げます。
……彼とギブソンの死は恐らく、作品・エンタメとして白黒ハッキリさせたかった部分なんだろうと思います。
お人よし過ぎても、狂気過ぎてもダメ。
最後に海について、海は戦場を徐々に実感していく舞台になっています。
元より「戦争を知る」船長、父。
父や兄の伝聞で「戦争を知ったつもり」の青年、息子。
「戦争を知らない」少年。
「戦争を体感した」兵士。
……お察しだろうと思いますが、最重要は恐らく息子なんだろうと思います。
少年は、戦争に対する知識が不足しているからこそ
目の当りにした想像を絶する兵士らの視線、様相に、意識を激変させていきます。
シェルショック状態の兵士を救った時、少年は「腰抜けなのか」と問います。
この段階では、戦争の高を括っているのですが
シェルショックという状態を知り、すれ違う軍艦の常軌を逸する様相を目撃する事で、ガラッと意識が切り替わります。
……恐らく……、あの印象的なカメラワークがその証左だと考えています。
兵士は、完全なる狂気に曝されて正気を失っています。
劇中、どうにか正気を取り戻そうとする場面が何度も現れます。
船長とまともに交渉しようとしたり、救助活動に手を貸したり
自らが狂気に負けて少年を傷付けた事に怯えたり、それを最後まで気にかけたりと。
しかし彼に正気が戻る事はありません。
劇中の最後で、死んだ少年の姿を彼は目撃しますが、何も言わずに逃げるように去っていきます。
「もう、元には戻れんかもしれんな」と言った、船長の言葉が生々しく刺さる人物です。
そして息子。
彼は最も、“視聴者”に近い存在です。
息子が兵士を幽閉した時、「やっちまった」と感じると同時、多くの人がその行為を理解もした筈です。
しかし狂気の中にあってあの選択は、どう足掻いても悪手です。
戦争の凄惨さも、容赦なさも、場合によってはシェルショックだって、彼は元より理解しているのです……、伝聞として。
そんな先入観の甘さが、船内で直面する一つ一つの狂気によって、少しずつ浮き彫りにされていくのです。
それぞれの要素はざっくり、恐らく上記のような構成で成り立っています。
それらを踏まえた上で、最初の四つの疑問に立ち返ります。
一つは、船の青年の心変わり
一つは、船の少年の死の扱い
一つは、帰国後の老人の行為
一つは、最後の主人公の面持ち
色々再考した上で、最初から考えてもみれば畢竟単純な話
青年たる息子は狂気を肌で触れて、狂気に曝され正気を失った人間を、正気の沙汰で攻撃する理不尽さを理解するのです。
船長たる父は無論、それを最初から理解しており、息子が先入観を乗り越えた事実を静かに受け入れるのです。
少年の死は、戦争における英雄の一つの形として描かれています。
利用される英雄でもあり、戦争知識の乏しい一般市民が、戦争に対して急激な理解を深め
その死さえも受け入れてしまう、他のどの舞台でも現れない英雄として描かれているように見えます。
最後の主人公の面持ち……、映画におけるファーストカットとラストカットの重要性は言うまでもなく。
ですから、ラストカットにえも言われぬ表情の主人公を持ってきた事には意味がある筈です。
それは恐らく、戦場にいた主人公が「生還したい」一心で正気を保っていた事実と
自国にいたチャーチルの様になる演説が真逆を行くものだからだと思います。
国民や兵士らを鼓舞する「我々は決して屈しない、戦い続ける」という誓いの演説は
辛うじて正気を保ち、やっとの思いで“生還”した主人公からすれば、とんでもない話なんでしょう。
一方で隣にいた二等兵は、その演説を受け入れて次なる戦地にも赴くのかもしれません。
ここが、正気の拠り所の違いを妙に浮き立たせていたように感じました。
そして、帰国後に主人公の顔を触れる老人の行為。
……これは、正直いまだによく分かりません。
盲なのかと狐疑もしましたが、劇中にその描写もなし、よく分からないのです。
一つ、劇中に描かれた事実の中から強引に紐付けていくとしたら。
息子を空軍で失っている父たる船長にヒントがあるように思います。
自軍の戦闘機の墜落を、顔を伏せて視認できない姿――
「我々老人が始めて、子供達を戦場に送った」という台詞――
……それらから察するに、戦争を直視できなくなった老人の呵責が
「生き延びただけで十分だ」という、本作の希望的な主題とも言える台詞に繋がるのかと勘繰るところです。
……こう考察してしまうと、やはりチャーチルの演説をどう受け入れるべきか難しいところですね。
……なんだろうあの老人。
ただ、僕は映画を観た時、あの演説を格好良いと思うよりも先に「残酷だ」という印象を受けました。
結果的にイギリスは勝てた戦争だと知っていれば、あの鼓舞も興味深く受け入れられるのですが
主人公と同じ立場に立てば、ボロボロに負けて逃げてきた相手と、死ぬまで戦えと言われているようで
あまり好意的な印象を受けませんでした……、この感覚がノーラン監督の狙いか、僕の的外れか分かりませんが……。
兎角。
こうして散々に再考察をはじめると、決して娯楽性を欠いたような映像美一辺倒の作品では無い事が垣間見えます。
観返していく内に、その圧倒的な映像による説得力が戦争における狂気を描くのに必須である事も痛感し
ひたすら「あぁなるほど……、あぁなるほど……!」と唸りながら、考えていました。
でも世間の映画評をみると、やはり映像美への称賛ばかりに見受けました。
もしかすると、ノーラン監督は視聴者のそういう“観方”も察した上で
船での息子の言動に、わざと引っ掛かりを用意したのかもしれません。
……なんて思うのは、自分都合に少し捻じ曲げすぎでしょうか。