先日、今年の2月頃に書きかけた“内向的な備忘録”を見つけました。
ものの数ヶ月前の覚書――、それだのに。
まるで別人の思考なようで、他方、胸の内を取り出したような沈思の跡形で、狐につままれたような心持ちです。
そんな数ヶ月前の見解と、生の思慮とを綯い交ぜにしながら、残骸を復元してみました。
長くなりそうなので、二回に分けて書こうと思います。
少し風変わりな、時間錯誤を潜めた日記です。
「心の地平面。」
――ひとつ、幸と不安について。
幸せについてふと、色々と思うようになりました。
幸福というのは極めて主観的な価値観だと思います。
しかし一方で、世間一般的に“幸福とみなされる環境”というものも、あるように感じています。
それに属しているから幸せだ不幸だの……、無味乾燥、荒唐無稽な与太話ですが、
そんな俗話も間々耳にするぐらいには、善し悪し兎角、多くの人に共通して認識される概念なのだろうと思います。
手前味噌でも何でもありませんが、客観的に自身の現況を並べていった時、
曲がりなりにも、その共通の認識に自らが収まっていっているような感触を覚えました。
荒誕不稽なんて言ってみましたが実のところ、異口同音に説かれ仄聞する不確かな口伝には
何だかんだ由縁もあるのだろうと思っていたりします。
ですから、自身が謂れある環境に置かれていると認識した時、態々、「今、幸せなのか」と自問に努めました。
実際の所、仄かな幸せは確かに増えました。
幸福として、受け入れるべき喜びも増えました。
でも同じぐらいに、不安も恐怖も増えています。
手の中に得られた幸福は、重さを有し、それが思いの外に重く、そして小さいのです。
ひょんな事で簡単に失ってしまうほど脆いものでありながら、失えば二度と在りえないものなのです。
宛ら、陶器の如く。
そんな幸福を大事に大事に掌に抱えるほどに、手垢はつき重みも増して、
この幸福に“代わりなどない”という現実を、ただひたすらに突き付けてくるのです。
その重さを支えられなくなって、落とすのか下ろすのか、失うその日は必ず来る――。
分かっているからこそ、恐ろしいほどに愛おしく虚しいのです。
口伝の環境が齎した幸福は、そういう静かなものでした。
そんな静かな幸せを噛みしめるようになってからの事。
久方に、公園で独り、ご飯を食べる機会に見えました。
数年前は毎日の事、あの頃の感覚を思い出すように、茫と居所を探しました。
座り込んだベンチを中心に広がる、その雑多な環境の中に溶け込むように、
その空間のあらゆる概念と原子を共有するように、腰を深く据えてご飯を頂きました。
するとどうでしょう。
重みのない環境で、昔懐かしい憧憬と強い幸福感を覚えました。
――嗚呼そうだ、僕はこれが好きだった。
空間の中に自我の澱さえ溶けていく……、そこにあるのは自由への渇望です。
それなりの幸福とされる環境を得てもなお、死が一番の自由だと、今も変わらず思います。
こびり付いた希死念慮は、恐らくもう、消える事も無い。
ただ、手にある幸福の重さを知ってから、いくらか認識も変わりました。
こんな自分でも、あの重さを抱えている事、また誰かの重さであろう事――
その事実に目を向けた時、気付けば“死”は容認し難いものになっていました。
そうして、よくある言葉に辿り着きました。
「死に場所を探している」
一生懸命に死なないよう、抱えたものを落とさぬよう必死に生きながら
誰からも「仕方ない」と言ってもらえるような死に場所を探す人生に、様変わりしました。
ずっと、死ぬ時に死ねるだろう、という受動的な中に在ってそれが希望だったのですが、もう縋れないようです。
こういう、“生”への執着の乏しさを記す時、どうにも逆張りしているように自分でも感じます。
しかし、夢と自覚のない夢の中での話ですが。
命の危機に晒された記憶が幾度かあり、その全てで、僕は死に抗えませんでした。
死に直面すると大して足掻きもせずに「あぁ嫌だなぁ、でもしょうがない、苦しまずに死にたい」とだけ願って
致命傷を受け意識の遠退く様をはっきりと覚えて――、毎度グロッキーな目覚めを迎えています。
落下死、焼死、溺死、他殺……、何れの場合も泥臭く足搔きもせず、意識の途切れる寸前を迎えてしまいました。
だから多分、現実で同じことが起きたら同じように対応してしまうんだろうと思います。
死の危機に直面したら、きっと迷わず、目を閉じる。
“生きたい”と強く渇望する事が、本当に難しい……、心が弱過ぎるんだと思います。
なんて書いていた最中に、また夢の中で死にかけました。
そして柄にもなく、こんな日記を書いていたからか、生きようと足掻きました!
訪れる死の内容は短絡的な他殺です。
顔と名前ぐらいしか分からない著名人から、何故か、銃を突きつけれている夢でした。
その時、幾つかの事柄がぱっと脳裏をめぐり、雑ざり弾け、鮮明になった一言、――(まだ納品してないじゃん)。
今の仕事を納品しないと迷惑だと察し、事態解決に身体が乗り出しました。
咄嗟に突き付けられた銃口を掴み、考え、
「……、あなたを殺人鬼にしたくない」と言い訳しました。
……なんと気持ち悪い言葉選び。
しかし割と大真面目に、(僕なんぞ殺して殺人鬼とか、勿体なさ過ぎるだろう)と思っていました。
著名人も困惑し、僕が力で勝っていたので状況を制した所で、――(……これ夢では?)、と思って目覚めました。
……、仕事に責任感じている内は、頑張るかも知れません。
みんな案外、そんなもんだろうと思います。
そうして死に場所を求め彷徨う合間にも、手の中の重さは着々と増していき同時、握力は淡々と衰えていく。
それらをがらんどうな経験則を用いて計れば、あと幾ら耐え続けられるかも漠然と感じられてきました。
残り時間は、途轍もない。
自由を渇望し続ける弱さにとって、この試算はあまりに冷淡で現実的でした。
一体、この残り時間をどう消費しろというのだろう。
考えるほどに絶望的ですが、やる事は既知の繰り返しと懸命な練磨だけです。
その道中に、隠れたつもりの丸見えの苦痛が、苦痛が、苦痛が……、嫌というほどよく見えます。
でも、それさえも気付けばただの繰り返しでしかない事も、もうよく分かりました。
挑んで、痛んで、忍んで、忘れて、勇んで、傷んで、偲んで、忘れる。
傷は治るが痕は残る。
増える傷痕が忘れた記憶を誇張して脅かす。
着々と臆病になって、少しずつ諦観ばかりになっていく。
どうせ忘れる――、と雑になっていく。
諦念の齎したしじまを裂いて、
“容易くなかった”と傷痕が喚く。
乾いた痣が、新たな恐怖になっていく。
曖昧になった致命傷の痕が、不安を募る。
疾うに忘れた筈の、溶け落ちた時間も矛盾した長さを帯びる。
そうして、困難な記憶だけが増えていく。
死は許されず、生き難い。
死に場所を求める躯でも、息ある限り、息苦しさは終わらない。
この息でさえもいずれ、仄聞した口伝ように、掛け替えのない重みになるのだろうか。
その自問には蓄積で得られた予見から、真だろうと自答できる。
そしてそれが、今の重みに比べて取るに足らない程度であろう事も。
結局、抱え込んだ重みだけが渇望を抑える理性足りえています。
もう、それ以上のものはない、終わったんです。
生きるのは辛い、誠に辛い。
死を羨ましく思うほど、心から辛い。
でも、その辛さを耐えたいと願えるほどのものがまだある。
たぶん、それが僕にとっての幸せです。
その幸せを、態々自覚することが、僕にとっては大事なんです。
淡々と握力を落とすだけの躯にならない為に。
着々と増す重みを、少しでも長く支える為に。
溢れかえる不安に、溺れない為に。
――ひとつ、幸と不安について。